女の子の誕生日は7月8日です。泣き虫の彼女を、お母さんが諭します。「いいかい、織姫星さまと彦星さまは7月7日に逢う事が出来て、そうしておまえがうまれおちて来たんだよ。星の子は、そんなに泣いちゃあいけない。輝きなさい」
絵本に出てくる織姫はとても綺麗でした。保育園の遠足で、女の子たちは、おおきな川のそばのプラネタリウムに行きました。天の川の上で、一年に一度だけ再会するお母さん織姫と、お父さん彦星。女の子は自慢げに、隣の席のおともだちに話してあげました。
女の子はとても頭の切れる子でしたから、大人たちに褒められるにはどうすれば善いかを無意識のうちに心得ていましたし、そういった行動をとれば自分を縛りつける監視の目も薄れることを承知していました。寝入ったとみせかけて、深夜階段の段差に腰掛け、大人たちの会話を盗み聞くこともよくありました。絶対的に頼もしかったはず、正しかったはず、の彼等が発する罵声や泣き声。普段なら絶対見ない、狼狽した表情……女の子は幼いながらに、大人たちに酷く絶望したのです。大人になることが怖く感じられました。自分が大人になるだなんて、信じられませんでした。考えると、息が苦しくなってきます。ずっと、このままでいたいと思いました。
蝉が泣き出して、日の照り方がすこし変わったようです。梅雨が明けたのでしょうか。保育園で、先生がおおきな笹を持ってきて言いました。「もうすぐ七夕だから、みんなで短冊にお願いごとを書こうね」 女の子は長細く切ったグリーンの模造紙に、おおきな字で願いを記しました。
「おとなになりたくない」
7月7日、女の子は朝からずっと、わくわくしていました。空にいる、おかあさん星とおとうさん星に、会えるのですから。七夕のお願いも、きっとかなえてくれるはず。誰よりもいちばんに、誰よりもかんぺきに。「なによりも、わたしは、おりひめさまと、ひこぼしさまの、ほしのこなんだから」 暗くなってきたころ、女の子とお父さんは、望遠鏡を抱えて近くの川へ行きました。土手に腰掛けて、星が出てくるのを待ちました。
気がついたとき、女の子は自分のベッドの上でした。眠い目をこすりながら、階段を降りました。食卓のドアを開けると、にこにこ笑う、お父さんとお母さんに迎えられました。
「お誕生日おめでとう!」
嗚呼、何ということでしょう。女の子は、七夕のお願いが叶わなかったのは自分のせいだと思いました。昨晩星が出る前には寝てしまったから、一年に一度しか会うことが出来ないのに会えなかったから、きっとおとうさん星とおかあさん星は怒ってしまったんだ。許してくれなかったらどうしよう。この日は昨日までの猛暑とはうって代わって、朝から大雨です。遠くのほうで雷も鳴っているようです。女の子はとても悲しくなりました。
「来年また会えるから」お父さんは女の子を慰めます。うそつき。うそつき。次のにちようびに公園で遊んでくれるっていったじゃない。お母さんのこと大事だよっていってたじゃない。うそつき。来年また会えないかもしれないじゃない。喋らなくなって、階段の段差のところでずっと動かない女の子に、お母さんが言いました、「誕生日ケーキを注文しといたからね、おつかいにいってきてちょうだいね」
黄色い傘とお揃いの雨合羽、だいすきなケロッピの長靴で歩きます。水溜りを蹴散らして歩きます。昨夕来た河原を通ります。途中で雨が止みましたが、女の子は空を見上げることが出来ませんでした。綺麗だった雨合羽も、綺麗だっただいすきなケロッピの長靴も、泥だらけ。その泥しか見ることが出来ませんでした。
駅前のケーキ屋さんでケーキを受け取りました。苺が5つ。ローソクも5つ。綺麗に並んでいます。真ん中のチョコレートには「さゆりちゃん おたんじょうび おめでとう」と書かれています。「おつかいなの。えらいねえ」お店のおばさんがペコちゃんのぺろぺろキャンディをくれました。ありがとうと会釈して女の子はそれを貰いましたが、本当は全然嬉しくありませんでした。
店を出ると、さっきまでの雨が嘘のように晴れ上がっていました。蝉がまた、鳴き出したようです。気だるい蒸し暑さが舞い戻って来ました。女の子は元来た道を戻ります。泥の付いた足の先を見つめながら、右手に傘、左手にケーキの箱を持って。先ほどの河原は何故だか人でいっぱいです。不意に、女の子は不安になってきました。お父さんとお母さんが待ってるから早く帰らなきゃ。早く帰らなきゃ! 駆け出そうとした次の瞬間、前方の石ころに躓いて、女の子は両手の不自由なまま、頭から転んでしまいました。
そのとき、
ドォンと轟音が辺りに響き渡りました。転んで地面に付いた女の子は空を仰ぎました。濃い夜空に緑色のおおきな花火。続けて赤 黄 紫。地面が爆音に揺れています。咄嗟にお父さん彦星とお母さん織姫のことが心配になりました。あの五月蝿い音に、火薬の匂いに、気分が悪くなっていないだろうか。 目線を周囲に戻すと、ひっくり返ったままのケーキの箱が目につきました。開けてみると「さゆりちゃん 5さいおめでとう」のチョコレートが、真っ二つにぱっきり割れていました。細工の細かいクリームも、綺麗に並んだ苺とローソクも、もうぐちゃぐちゃになってしまいました。砂のついた指で真白なクリームをすくって、口に運びます。体中に柔らかくて優しい甘さが広がっていきます。その刹那、女の子の目から涙が溢れ出します。 青 ピンク 赤 虹色。花火が次々上がります。女の子の目からも次々に涙 涙 涙。擦り剥いて血が滲むその手でクリームを掴んで口に入れます。泣かないように、スポンジをわし掴んで、口に詰め込みます。飲み込む暇もないまま。次から次に。甘いクリーム 血の味 ざらついた砂の舌触り。泣かないようにと思うのに、涙は止まりません。泣かなければ願い事だって叶ったのに。 土星 ハート ニコちゃんマーク。綺麗な花火にどこかで歓声があがります。女の子はなお、泣きながらケーキを口に運び続けます。両足には、血が滲んでいます。だいすきなケロッピの長靴も、夜空に咲く大輪の花も、思い描く星のお母さんとお父さんも、自分の帰りを待っている地上のお父さんとお母さんの顔も、何もかも涙でぼやけてしまいます。お願い事は、もう叶いません。女の子はひとつ、年をとったのです。女の子は声をあげて泣きました。わんわん泣きました。泣き声は花火の声にかき消されて、人々の歓声にかき消されて、でも女の子は自分の声しか聴こえません。ただただ泣きじゃくり、口に入れ続けるのでした。
*
今年の梅雨が明ければ女の子は15歳です。人前で泣くことはもうめっきりありません。それでもひとり、静かに涙を流す夜には、蒸し暑い中暗闇に漂う火薬の匂いや、轟音とともに一瞬で消え去る大輪の花や、ショートケーキの甘さ。そんなものなんかを思い出すのです。