裾野市民文化センターにて
「大洞山から三国山へ」
畑仕事仲間のOKさんを誘って「大洞山」に登った。山梨との県境の「篭坂峠」に登山口がある。山中湖村の共同墓地になっていて、ここからすっかり葉が落ちた林の中をゆっくりと登っていく。枯れ枝を透かして右手に箱根の外輪山、左には山中湖、後を振り返れば富士山がくっきりと。バスツアーもよく訪れる人気のハイキングコースだよ。
「大洞山」別名「角取山」の裾を登って景勝地「あざみ平」に出る。夏には巨大なフジアザミが群生しナデシコやウメバチソウが楽しめる花園だけど、冬枯れの今日はフジイバラの枯れ木に真っ赤な実がビッシリとついていた。一面の緑の苔庭の中にモミの低木が小さな林になって丁度クリスマスの季節にお似合いだ・・・。
2年生のSEさんは前回「接続詞」の(2)をやった。 並べ替え問題のShe was surprised at the news that her son got injured. は正解だったね。このthatは「・・・という知らせ」と訳せる接続詞で「同格」のthatと呼ぶよ。しかしもしat the news なしで、She was surprised that her son got injured. となっていたら「・・・だったので驚いた」となるから、このthatは「感情の理由」を表す接続詞なのだ。 I am happy to see you.の不定詞と同じ働きで、be pleased、be disappointed などの時も同じだ。今日は特殊な「否定表現」をいくつか勉強した。anything but〜やfar from〜は強い否定の副詞の働きになって never に置き換えることができる。
MIさんは前回接続詞の文法・語句整序問題でほぼ完璧だったが My friend said nothing when I asked him how he was that morning. の語順で失敗した。後半は直接話法だとwhen I said to him, ” How are you this morning?” となるけど、間接話法で従属節になおすなら 疑問詞+SVの語順になると習ったたよね?接続詞+SVも関係詞+SVもみな同じことだ。「とても暑い日」はa very hot dayだけど、強調語を入れ替えると such a hot day やwhat a hot day のように a の位置が2つ目にかわるし、さらに3つ目に移動する例もあって so hot a dayや as hot a day (as 〜)「〜と同じくらい暑い日」、too hot a day 「暑すぎる日」 にも注意しよう。
KI君は前回 not A but B やnot only A but also B の構文を勉強して、関西大の和訳も正確に訳せていた。今日は「二重否定」の構文を勉強した。 We never watch television without being influenced by it. そのまま「その影響を受けずにテレビを見ることは決してない。」と直訳でもいいけど、肯定文に置き換えて「テレビをみると必ずその影響を受ける。」と意訳してもいいね。 I never hear that song without remembering my high school days. という文なら意訳の方がずっと普通だ。「その歌を聴くと必ず高校時代を思い出す。」
御殿場教室の1年生MU君が出席した。「時制」のUとして、「完了形」を中心に問題を解いたら、かなり正解だった。「現在」「過去」「未来」の3つの時制に合わせて have –ed、had –ed、 will have –ed の語形が区別できていたね。後半は5文型をテーマに長文の「虹の色は何色?太陽は黄色?」を全訳した。しっかりした訳文になって英文の構造がずいぶんわかってきた。
3年生OHさんは「助動詞」の文法や語句整序をやった。助動詞+動詞の原形、が基本だけど「否定文」の作りかたには注意が必要だ。would rather V (〜する方がましだ)とhad better V は2語で一つの助動詞と考えるからwould rather not V とかhad better not Vとなる。ought to V は ought not to V で、used to V はdidn’t use to Vとなるよ。 尾上
(追記)NEC電気や電子機器のセイコーで活躍してきたOKさんは、生粋の理系男子で県西部の名門「磐田南高校」の出身だ。引退後の今は「簡易パソコン」を自分で組立てる教室を開いてみたいな、と言っているほど。私も実は高3の夏に「文転」するまでは理系で、数学Vも物理も得意だったよ。「理系」には「世界史」が大変だからと聞いて、社会科科目も入学時から「日本史」と「地理」を選んでいた。
そのいきさつをよく覚えていないけど、「青山学院大」出身の父親が英会話が堪能で、軽金属の貿易会社に勤めていたし、自分でも小さな会社を起こしたからその影響かな。インド・パキスタンなどにしばしば出張しては現地の郵便切手をおみやげにしてくれた。世界を駆け巡るビジネスマンになるには「経済学部」に進学したいし、小学校時代をすごした東京に戻りたいと考え進路変更した。私が教師の道を選んだのはまた後の話。
高校から編入で入学した「甲陽学院」は大阪と神戸の中間で「甲子園球場」のある駅の前。多くのクラスメイトは京都大学、特に工学部を目指していてその年も30人が合格した。西宮市夙川という町で一番近くに住んでいた親友のFU君は典型的なコースで、京大と大学院を出て「日本板硝子」に入社。その後上京して「千葉工場長」になり、「社長」と「会長」を歴任して有名になり、70歳を過ぎた今も「相談役」の座を守っているスゴイやつ。生粋の「甲陽健児」だ。その一人娘があのユニークなタレントの「千秋」とはねえ。
