「中野駅前で同窓会」
私は昭和30年東京中野区の桃園第三小学校を卒業した。2日は久しぶりの同窓会をJR中央線、中野駅前の寿司屋でやるというので出席した。(私は小・中・高・大のすべての仲間を大切に思い同窓会にはほぼ毎回出席しているよ。)昔小学校の校門前で文房具屋をやっていた八千代市のKIさん、作新学院高校で教師をやっていた宇都宮市のAR君を入れて10名が遠方から集まった。千葉・埼玉・神奈川に移住した人が多く、東京にまだいるのは青梅街道で老舗の牛乳屋の跡を継いだSU君と杉並のKA君だけ。オーストリア人と結婚してウイーンに住むMAさんがこのたび実家の処分で里帰りしたので集まることになったんだ。
デイサービス通い、腰痛がひどくて歩けないなどの欠席連絡が多いなか、80才「傘寿」といわれる高齢者がこうして元気な顔をみせあえるのは奇跡に近い。東京の駿台予備校で偶然同クラスになったMI君は今もモンゴルとの間を往来して友好関係に活躍しているそうだ。同じ高校教師だったAR君は最近日本橋からスタートして5つの街道をすべて踏破したというからスゴイ!私も「昨秋から生涯学習のボランティアで英字新聞の会を始めました。LINEのグループ(桃三梅組)でこれからも大いに語り合いましょう」と報告。一方、いつも隣の席で親友だったUE君、麻布・東大のエリートコースだったTO君もすでに冥界の人。合掌。
デスク型のパソコンが出現する前に、だれでも一台持っていた開閉式のワープロという機械を見たことがありますか。WORD PROCESSORの略で、英文と和文の両方でタイプライターとして使えば試験問題とか文章作成にとても便利だった。40才の頃使い始め、それがバージョンアップして電話回線でデータ送信ができるようになり電子メールが始まった。50才の頃、東京で開催された富士通の「説明会」に出席したらNiftyのアドレスを入手できたので今もそれを利用している。それがインターネットに発展し、ブロードバンドの普及でテキストだけでなく画像や音声も送受信できるようになった。
アナログの時代、大学の卒論はタイプライターも使わずペン書きで、ペラペラの数十枚のレポートのようなものだった。24才、静岡県の高校教師になって始めは試験問題も鉄筆でガリ版の紙に文字を書き込んだものだ。3校目の島田商業高校に転勤して初めて「情報処理科」の生徒たちが授業に使用する大型コンピューターを見た。まだ個人用のPC(パーソナルコンピューター)などない時代、生徒たちはFORTRANとかいう最先端のプログラミングを勉強していた。作成したデータは紙テープに穴をあけて記録して持ち歩いていたなあ。 尾上
