「清里の花たち」
清里の「美しの森」には初めて来た。ほかの車の人たちは展望台の階段を上がってミズバショウを見に行くらしい。が、私は駐車場からやぶの中の細い足跡をたどって下っていくのだ。100歩も歩いたあたりにピンク色の点々が、「あった!サクラソウだ!ああ、あそこにも!」山の中に咲く野生のサクラソウは初めてだ。小川の作った小さな湿原を見つけたら、20本ほどの花束になった群落も。スリムな白い花「アマナ」も「春リンドウ」も一杯だ!
山梨市に住む「花友」の雨宮さんの情報をたよりに「美しの森・駐車場のトイレの横」を入ってみた成果だった。清里高原に来るとまず「清泉寮」に行って、広い甲府盆地をとりまく山々を見渡しながら名物のソフトクリームをなめた。40年前に息子たちと家族4人で来た時にはここで「室内楽演奏会」があって、ホールの外のベンチに座って漏れてくる美しい弦楽に聞き入った思い出が懐かしい。突然の立ち寄りでチケットが完売だったから・・・
しばらくは「裾野教室」の授業のない木曜日もブログを続けたいと思います。「英語」にまつわる個人的エピソードを中心に半世紀前を振り返ってみます。
「英語教師 なりはじめ〜5」
東伊豆で見るもの聞くものすべてが珍しく桃源郷のような2年間だったが、新婚生活を始めたばかりで稲取高校を去る時が来た。若い主任以下5人の英語教師のうちでまだ着任したばかりの私が転出することになり、1970年3月末静岡市のまだ先の島田市へ引っ越した。「島田商業高校」は商業教育でも野球の伝統でも「静岡商業」とライバルで活気にあふれていた。当時はコンピューターの草創期で、「情報処理科」のクラスを担任したので、生徒と一緒に私もプログラミングを勉強してみた。テレビの講座で「フォートラン」FORTRANや「コボル」COBOLなどもやってみたなあ。
島商では最初にバスケット部を任された。ゲームの使用語が英語だから英語の先生が担当することが多いのかな。しかし運動音痴の私は生徒のすばやい動きについていけず1年で辞退。翌年から「吹奏楽部」の顧問となって特技が発揮できるようになった。高校や大学でやったトランペットやサキソフォーンやホルンが吹けたから。ここで演奏する曲は、吹奏楽の盛んなアメリカから直輸入の楽譜がほとんどなので英語が生かせた。「吹奏楽部」の顧問になって最初の指揮はストラビンスキーの「火の鳥」で、静岡の「駿府会館大ホール」で開催した中部地区だけのコンテストで1位がとれたよ。 尾上









