「鬼怒沼山へ」
25日は夜明け前に東京を走り抜け「東北自動車道」を進んで、日光の手前で高速をおりて「鬼怒川」をさかのぼって行った。「鬼怒川温泉」のビル街を通り抜け「川治ダム湖」を右に見ながら進むと次第に深い渓谷になっていくよ。「川俣温泉」から少し先が「奥鬼怒温泉郷」で一般車は「女夫淵」の駐車場で行き止まり。四阿で遅い朝食を取っていると今夜宿泊する宿の送迎バスがやってきた。山向こうの尾瀬沼まで通じる「スーパー林道」の悪路をガタゴトと走って登山口に着いたらもう10時だ。ひなびた木造の山の宿「日光澤温泉」の裏庭から登っていこう。
山地図で見て等高線が混んでいるところは急傾斜、やはり息が切れるが登山道は広くて登りやすい。大岩に咲くダイモンジソウやシラヤマギクに癒されながら4時間、標高差1200mを登り切ったら森がパッと開けて、目の前に「鬼怒沼」の大湿原、その向こうに「鬼怒沼山」のなだらかな尾根も池塘の水面に鏡のように写ってる。澄み切った青空と白い雲、ベンチで遅い弁当を食べながら「天空の庭園」を楽しむ。この南端からさらに北端まで進めばはるか下方に「尾瀬沼」が見えるらしい。しかし秋の日は「つるべ落とし」というから暗くならないうちに下山して今夜の宿「八丁の湯」に急ごう・・・
今日は木曜日。「裾野教室」があれば授業の内容が書けるのですが、今年4月以来しばらく休止しているので、「言語学と私」についてお話してみましょう。今日はその1回目。
私の母校「東京外国語大学」は当時は小さな単科大学で1学年が400人くらい。私が在籍したロシア科は男30女10人の1クラスだけだった。第1回目は佐藤勇主任教授の授業で、いきなりロシアの寓話を原書で読み始めた。「・・君、そこ読んでみて」には驚いた。まだアルファベットも教わっていないのにね。専攻のロシア語の授業は毎日あるから実に密度が濃い。2年目には会話も得意になって「ソ連大使館」を訪問したり、その年(1964)の「東京オリンピック」には選手村のロシア人のガイドをする仲間もいた。今では2つの学部に別れたけれど、当時の3年生は「言語文化コース」と「国際関係コース」を選択でき私は前者を選んだ。それが「言語学」を専攻するきっかけになったんだ。
3年目には私もロシア語通訳のアルバイトをやったよ。大阪の「安宅産業」という貿易商社がロシア語のできる学生を募集したので応募して、8月の2週間初めての外国「ロシア」の大地を踏むことができた。富山県の「伏木港」から貨物船に乗りシベリアの原木を買取に行くのだった。4日間の船旅で日本海と間宮海峡を北上し、樺太の対岸「ラザレフ岬」に着いた。数日の積み込みが終わってからが私の仕事、木材買取の文書を取り交わす会議の通訳だった。なにも問題もなくあっさり終わってホッとした。ここは林業のほかに何もない寒村で、暇な日には港から離れた「船員クラブ」まで泥んこの道に敷いた木道を歩いて行ってロシア人の従業員と文化交流してきたよ。 尾上









