「上野でマティス展」
車を運転して東京に出たのは何年ぶりだろう。東名の用賀から「首都高速1号線」に入ると三軒茶屋、南平台、渋谷駅前、青山学院、六本木、芝公園と懐かしの町々をスイスイと通過していく。隣に座っている山梨の山奥の弟は何十年ぶりかの景色に感嘆の声を上げる。私たちが戦後住んだ家、通った渋谷の小学校、大学のころ学び遊んだ町が高層ビルに埋もれて判別つかず、年月の変化にまるで「浦島太郎」の心境になる。上野ランプを降りると「上野駅」の真ん前に出てまたビックリ!大学時代は山手線からここで常磐線に乗り換えたなあ。弟はここから「不忍池」の勤務先まで毎日歩いた懐かしの町なみだよ、と。
上野動物園の隣にある「東京都美術館」(通称・トビカン)で開催中の「マティス展」を見るついでに、デザイナーをやっている従妹の夫が画いた「アクリル画」が「公募美術展」で優秀賞が取れて、同じ美術館で展示中だというのでそのお祝いに駆けつけたというわけ。彼が80の手習い、というから驚きだ。2階のレストラン「精養軒」で乾杯し名物のオムライスを食べてから地下の「マティス展」に向かった。今回は20年ぶりという大規模な回顧展でパリから届いた150作品が展示されていた。ピカソのように90才まで活躍したマティスの作品は単純化された画面の構成がすばらしいし色調の明るさ、特に晩年の真っ赤な部屋、真っ赤な絨毯が一番の人気なんだ・・・
しばらくは「裾野教室」の授業のない木曜日もブログを続けたいと思います。「教育」にまつわる個人的エピソードを中心に半世紀前を振り返ってみます。
「英語教師 なりはじめ〜12」
島田商業に転勤した昭和45年、私は教職員組合(高教組)に加入した。稲取高校の同僚で大学の先輩でもあった社会科の故渡辺秀夫先生(ナベさん)の影響だ。英語科でも6人のうち4人が組合員で若い教員を中心に勉強会や親睦会、小旅行などで活発な活動をやった。「戦争反対、教え子を再び戦場に送るな!」の旗印を掲げ、「管理職の法制化」に反対し職場の民主化をすすめようと訴えた。島田市を含む志田榛原地区の民間企業の労働組合と共闘して「メーデー大会」を実施したり、静岡県立高校全体の教職員でストライキを何回か打ったりもした。私が分会長の時にはメーデーの「大会宣言」を代表で読み上げたこともあるよ、「ガンバロー!!」と。
昭和42年3月、大学卒業を前に進学も就職も決まっておらず高校教師の道を模索した。「教育心理学」の履修単位が不足していて、その1科目のために外語大が用意してくれた「聴講科」に在籍した。7月に静岡県の教員採用試験、10月には東京都だった。教師は東京でやるのも生まれ故郷の田舎でやるのもいいな、と考えて採用試験に臨んだ。筆記試験で合格した後、二次の面接は5人の校長さんを前に緊張したなあ。「どこの高校が希望ですか?」ー私「よく知らないけれど生まれ故郷の沼津東高かな?」と。「あなたはロシア語を専攻して、ソ連の社会主義思想をどう思いますか?」とか、「教えている生徒が、政治活動やデモに行くと言ったらどのように対処しますか?」とか、答えに窮したよ。 尾上
