「指揮者小澤征爾」
世界のマエストロ・オザワが88才で亡くなった、残念無念。肺炎で命を縮めたがまだまだ活躍してほしかった。歯科医師の三男として中国の奉天の生まれだが、中学の頃はすぐ隣の松田町に住んで小田急線で「新松田」から「成城学園」に通学していたそうだ。私が高校生の頃、小澤は「桐朋学園短大」を出て単身スクーターに乗りギターをかかえて貨物船で渡欧し、指揮者の登竜門のコンクールに挑戦しているうちに名指揮者カラヤンと出会った。その後も名だたる名指揮者たちと親交を結び世界中の名門オーケストラを率いて世界のオザワとして絶賛を浴びたのは周知の通りです。
1984年から今も毎年松本市で開催されている「サイトウキネン・フェステイバル」は小沢征爾が提唱し、音楽指導者「斎藤秀雄」の門下生100人が世界から結集して恩師の追悼記念コンサートをやったのが始まりだった。斎藤秀雄は名著「指揮法教程」を書きバイオリン教室の「斎藤メソッド」で有名で、私が島商時代に学んだ指揮法も「斎藤メソッド」だった。力学や運動の法則に基づいた単純明快な指揮法だった。小澤征爾もあの秋山和慶も「斎藤メソッド」の薫陶を受けた名指揮者であることを知ると自分も同じ門下生のような・・・
私大入試の関係で11日(日)を13日(火)に変更しておいたUG会は、3年生が2人とも欠席したので報告することがありません。今日は昨年まで裾野教室があった木曜日なので、前回に続いて「吹奏楽と私」についてお話しします。その12回目です。
オーストラリア遠征の2年半後、1999年2月12日は我が家にとって痛恨極まりない日となった。米国東部プリンストン市に住む次男がブルームバーグ社の勤務帰り、自身が運転する車に道路わきの朽ちた大木が強風で倒れて激突し即死したのだった。道路を管理するNJ州知事も陸運局長も会見で非を認め謝罪してくれたがその喪失感は25年たった今もますます強くなるばかり。東京の大学を出てオハイオ州立大学の院に学びニューヨークに活躍の場を見つけた次男敦のために私たちは「追悼の曲」を吹奏楽で残そうと思い立った。米国シカゴのバンドクリニック訪問の際に知己を得た人気の作曲家エリオット・デル・ボルゴ氏にさっそくメールで依頼し快諾を得た。
間もなく「書きあげましたよ!」という知らせに、私は家内と米国NY州北部のシラキュース空港に飛びエリオット夫妻の住む自宅を訪問し、イタリア系の明るい笑顔の小柄なエリオット氏に迎えられた。五大湖のほとりのライラックの香りに包まれた瀟洒なお宅に泊めていただいた。委嘱作品は「アツシ・ア・リメンブランス」(敦のおもかげ)のタイトルで氏の考案だった。彼の書斎でピアノ演奏していただき、美しくも力強い響きに感銘を受けた。沼津東高のバンドの編成に合わせて吹奏楽コンクールに演奏できるように依頼したものだったから生徒の力が十分生かせて、2000年の夏のコンクールでは東部大会1位、県大会金賞で東海大会にも駒を進め見事「金賞」を射止めたのだった。 尾上









