「国立ロシア民族合唱団」
今朝から2泊3日で関西旅行に出かけています。母校「市立宝塚中学校」の同窓会、それも最後の同窓会が明日20日に「宝塚ホテル」で計画されたので出席します。そこはあの本家「宝塚大歌劇場」の一角にあって昔は朝夕に通った道です。高校に進学してすぐ2回実施された同窓会には参加したけれど、その後東京の大学に入ったし父親の転勤で家族も東京に戻ったことがあって60年間同窓会には一度も出席しなかった。親友だった谷利伸君や同じ中学から唯一同じ甲陽学院に進学した松原光治君からお誘いがあって、今回出席を決意したのです。
昭和31年(1956)の3月、私たち4人家族は父の大阪転勤に伴って東京杉並の家を売って兵庫県宝塚市に引っ越した。阪急電車宝塚線の「売布神社駅」近くの団地に新築の家を買い、軽金属の輸入業が得意な父は大阪市内の「佐渡嶋金属(株)」に通勤した。大阪は父の生れ故郷でもあった。2才下の弟は市立宝塚小学校の5年生、私は宝塚中学校に入学、男子が全員坊主頭だったけど私ひとりだけ長髪が許された。1年目にはチンプンカンプンだった英語が2年生で大好きになった。担任の先生が期待できそうな数人の生徒を選んで問題集を課題に出してくれたおかげだった。私の提出ノートに父が英語でお礼の文を書いてくれた・・・
今日は木曜日。「裾野教室」の日ですが今年4月以来しばらく休止しているので、「言語学と私」についてお話しします。今日はその4回目。
私が通い始めた渋谷の「理論言語学セミナー」では、その8月にまだ若きノーム・チョムスキー博士本人を招聘し、「新しい言語学、特別講演会」を有楽町の「朝日新聞」講堂で開催したのだった。初めて博士にお会いすることができ感激したものだ。大学4年生で言語学の面白さを再認識した私は大学院進学も考えたが、「ことば」の研究ができる就職先だと期待してNHKの「放送文化研究所」を希望して受験した。しかし受験会場の慶応大学が一杯になるほどのたくさんの志願者であえなく不合格。次に自分の武器のロシア語に近い南スラブ語の「セルビア語」の専門家になろうと、ユーゴスラビアの大学院留学を考えて「ユーゴ大使館」に紹介状を持って訪れた。しかし留学生の受け入れ制度がなくてこの夢も叶わなかった。
9月には学生課に来た求人で「モスクワの合唱団、通訳募集」をみつけ、応募したら合格した。シャンソン歌手の石井好子(故人)が経営する「石井音楽事務所」がソ連から「ピャトニツキー・ロシア民族合唱団」を招聘したのだ。民族衣装のルバシカやサラファンを着た男女が珍しい民族楽器の演奏に合わせてロシア民謡やコサックダンスなどを見せる楽しい舞台だった。公演プログラムの曲目解説の翻訳をまかされ、ナホトカからバイカル号できた団員60人を「横浜港」に出迎えた。通訳はモスクワのルムンバ大学を終了してきた大学の後輩と2人で担当し、10月の1か月間大学を休んで日本全国を巡業したよ。日本初の飛行機YS11に搭乗し鹿児島公演、福岡から新幹線で大阪・神戸公演へ。名古屋、静岡や群馬の前橋でもやって最初と最後が東京公演だった。「日本テレビ」の朝番組でスタジオに引率もしたなあ。 尾上
