【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


中心軸
中心軸
昨日、外で遊んでいたので、うっすらと日に焼けてしまった。鼻の頭が赤い(ルドルフ)。今朝出社したら、早速指摘されてしまったよ。もう少しは紫外線対策を考えた方がよいとは思うが‥。めん‥ど、く‥。

さて。友達に教えてもらった、腰の下に枕をしいて伸びをする簡単整体ダイエット(?)が、非常によい感じ。2週間ほど地味に続けているが、腹が締まってきたみたいだ。内臓が正しい位置に戻るのだそうだけど、実感としては「なるほど、真ん中が決まるのだな」と思った。中心軸。たぶん、インナーマッスルが刺激されているのだと思うけど(←適当なことを書いています)、自分の肉体の「真ん中」が決まるっていうのは非常に大事で、ただ立つ、ただ歩く、だけの行為も、「真ん中」を意識しているかいないかで、ものすごく変わってくる。と、思う。ただ諾々と歩いているか、己の肉体の軸を意識しながら歩くか。
軸を意識していくと、動きの無駄がなくなり、変な力が入らなくなり、フットワークも軽くなるようだ。そして、肉体と精神は、密接に関わっているので、肉体的に「真ん中」が決まってくると、精神的にも、ブレが少なくなってくる。‥‥なんてことを、思い出した。
そんなことを(別の)友達に話し、「だから簡単整体やってみるとよいよ!」などと鼻息も荒くすすめていたその矢先に、まさに中心軸を定めるための踊りや動きを色々と研究(?)している人たちと出会ったよ。え。なにそれ。超やりたいじゃん。

2010/04/19 (Mon)



優しい緑
優しい緑
横浜市内某所の里山に遊びに行きました。若い緑が無限に重なり合った、優しい景色を見たよ。日本の春は、淡く、霞んでいる。空も、花も、緑も。夢みたい。今日の緑は今日だけのもので、もうあと一週間、二週間もすれば、目にまぶしいくらいになってしまうのだろう。
自生する草花について、色々と聞きながら散策をしていたら、なにやら異彩を放つ花が咲いていた。風景に溶け込んでいないなと思ったら、それはいわゆる園芸種で(名前忘れた)、たぶん、誰かが捨てた土に種が混ざっていたのだろうとのことであった。一言で言うと、派手。
2010/04/18 (Sun)


ガツガツ
ガツガツ
昨夜は会社の飲み会だった。通常はあんまりやらないけど、異動してきた人の歓迎会。別につまらないとかいうことはないけど、何千円も払って、お腹いっぱい食べられない(食べ物の量が少なすぎる)のがちょっとね。鬱憤晴らしに、今日は豚キムチをガツガツと食べてやった。ガツガツ。
その席で、今まで生きてきて、いくつの時が一番楽しかったか、という、話題になった。話に参加していた全員が20代と答えていたよ。(10代は長すぎる、とも。まことに、まことに)。
わたしは20代は辛かったよ。すごく。暗黒だった。反面、キラッキラもしていたけど、戻りたいかと言われるなら、戻りたくない。別に何があったということでもないんだけど。
死ぬことを一番考えていたのは、20代半ばから後半だった(今のところ。先のことはわからぬ)。10代の頃も、そりゃあ考えていたし、今だって考えないわけではないけれども。たぶん、自分というものを受け入れるってことが辛かったんだろうな。折り合いをつけるというか。悪く言えば、自分を諦めるっていうか。
20代くらいだと、まだまだ先が見えないから、生きていることが怖くなるっていうのも、あったのだろう。たぶん。先が見えないっていうのは、人生設計(?)とかっていう現実的なこともでもあるし、いつまで生きなくてはならないのか果てが見えない感じというのもあって、それらが絡まり合って立ちはだかって、未熟な精神が負けそうになるっていうか。20代でそんなことを感じているようじゃ、遅すぎるのかもしれないけど。
30代も半ばを過ぎると、20代の時分に比べれば、少しは、終わりが見えてくる。だから、少しは、安心して生きることが、出来る。この調子でどんどん楽になればよい。
2010/04/17 (Sat)


雨
雨ですな。近所の、なんだかよくわからない荒れ地(?)に、一本だけある桜の木は、今花が咲き出しているところ。
なんだかよくわからない荒れ地っていうか、そこに建ってる家の所有地なんだけろうけど(だから中に入って遊ぶ、とかは出来ない)、庭とも言えず、一応なにやら野菜なんかも作っているようではあるけど、だからといって畑とも言えないし、何かを待機している風でもない、よくわからない場所。
場所に限らず、「なんだかよくわからない」っていうのが、好きだったりする。名前の付いていない、整備されていない、何か。
人間関係なんかもそうで、友達には、なるべく名前は付けないでいたい。『会社の友達』とか『飲み友達』とか『ママ友(別にママじゃないけど)』とか『趣味仲間』とか、何でもよいけど、そうゆうの。もちろん、“なれそめ”は“なれそめ”としてあって当然なんだけども、それはそれ以上でも以下でも、ない。と、思いたい。
「思いたい」って書いたのは、何故かというと、整備しないでいることへの不安というのも、よくわかるから。というよりも、むしろ、そういった不安に対して、ある程度自覚的であるからこそ、名付けないでいたいという願いが生まれるのだろうなぁ。
2010/04/16 (Fri)


夢鳥
昨日が暖かかったので、調子に乗って今日も薄着で出てきたら、なんだか寒い。失敗。風邪をひいてしまいそうだ。

社内で久し振りに顔を合わせた人に「髪、伸びましたね。伸ばしているんですか?」と言われて困惑する。「伸ばしているっていうか‥切っていないだけ」としか答えられない。こうゆう会話は、実際よくわからない。別に「くだらねーこと聞いてんじゃねーよ」とか、そうゆうことでは(あんまり)なくて。だから、“困惑”というのが一番しっくり来るのだけど。
こうゆうことを聞ける人とか、なんの疑問もなく答えられる人というのは、気持ちがとても優しいのではないだろうか。たぶん。

海は怖い。大海原の写真とか見ると、水面のキラキラした輝きの下にある深さ、闇、圧、温度、奇妙な生物なんかを想像して、底知れない気持ちになる。怖い。波打ち際でパチャパチャと遊んでいるくらいがよいのかも知れない。が、しかし。

2010/04/14 (Wed)


微妙に人生を支配する
ティーン回顧シリーズ。
本当に何気ない誰かの一言に、微妙に人生を支配されていたりすることがある。もちろん、わたし達は一人だけで生きているわけではないので、そりゃあどんなささいなことであったって、人生になんらかの影響はあるのだろうとは思うけれど。
高校生の頃によく遊んでいたバイト先のお兄さん達に「お前はそうゆうことはしなくてもよい!」と、言われた。そうゆうことというのは、飲みに行った席で、男の人にお酌(?)をしたり、サラダを取り分けたりとかいう“気が利く”行為。年上のお姉さん達がそのようにしているのを見て、真似をしようとしたら言われた。「へぇそうなのか。わたしという人間は、このようなことはしなくともよいのか」と素直に納得して今に至っている。たぶん。知らないけど。
飲みに行って、かいがいしくそのようなことをする女子というのはよく見かけるけど、なんだかとても不思議な気持ちになる。別に「いいところを見せようとしやがって!」とかはあんまり思わないけど(少しは思うけど)、居心地が悪いような。サラダなんて食べたいだけ勝手に取ればよいじゃないかと、正直心底思うが(席が遠くて、取りたくても取れない人に対しては別だが)、そのような有様だと、男にモテないのであるよ。まあ、モテても困るというのもあるのだけど。でも、モテたことのないわたしとしては、一度くらいはモテてみたい。モテたいっていうか、モテてみたいだけなんだけど。(この微妙な違い)。
そんなわたしのモテ願望はさておき、そのような女子的なことはしなくてもよかったのだが、真夜中の公園で野球みたいなことをしたり、閉店後のバイト先の店内(あやしい喫茶店。元同伴喫茶)に、2階から忍び込んで騒いだりとかいうことには付き合わされた。すごく楽しかった。ボーリングとかにもよく連れて行かれたけど、それはあんまり楽しくなかった。他愛のない青春の1ページ。懐かしい。
2010/04/12 (Mon)


予言
久しぶりに朝まで遊んだ。

酒とたばこの煙にまみれて大はしゃぎした後、寝っ転がって見上げた桜。散る花びら。明けて行く空。活動を始める鳥達。

写真は、無い。どこも切り取れなかった。

今年の桜の思い出はこれが最後だろうか。
2010/04/11 (Sun)


 
ちょっとだけ昨日の続きだけど。たとえばただ「寂しい」とだけ感じたり口にしたりするのって、とっても座りが悪いわけだよ。それによって相手(自分自身も含む)が自分に対して、どのような印象を持ち、どのように評価するのかが、わからないからね。わからないっていうのは、とても怖い。だから人はコントロールをしようとするわけ。したがるわけ。『寂しがり屋』っていう看板を立てて、評価の対象を自分自身から少しズラして身を守る。安心出来るじゃないですか。だから何だってわけじゃないが、自分の恐れや不安に目を向けていないと、簡単にそこに取り込まれてしまうからよ。その辺は厳しく監視していないと。まぁ、厳しいのは監視だけで、指導となると話は別だが。

相変わらず部屋は散らかっていて、洗濯物はブラブラとぶら下がっている。そんな中で、ジャンクな食事をとりながら、友達がおくってくれたマンガを読みあさる夜。
2010/04/09 (Fri)


部屋が散らかっている
部屋が散らかっている
部屋がひどく散らかっている。なかなか劣悪な環境。土曜日に干した洗濯物が未だに室内にぶら下がっている。が、どうにも片づける気になれない。

寂しいときに「寂しい」と口にする(思う・考える)のと、「自分は寂しがり屋なんだ」とかって言っちゃう(思っちゃう・考えちゃう)のとでは全然違うよな。
自分をどのように見せたいか、人からどのように見られたいかというのは、多かれ少なかれ誰にでもあるね。誰だって安心したいのだもの。たとえば、だけど、上記のように「部屋が散らかっている」とかいうことを書いて、そして「わたしってダメだなぁ」とかって続けたとしたら、それは「ダメな人」として認知されて安心したいってことでしかない‥と言ったら言い過ぎかもしれないけど、だいたいそうゆうものだと思う。少なくともわたしはそうだよ。「いい人」だと思われたくて、自分のよい面や行動をアピールするのも「いい人だと思われたら困る」から、自分のあんまりよくなさそうな面を(も)強調するというのも、心理的には大差はないような気がする。別にそれが悪いとは全然思わないけど、自覚だけはしていた方がよい。『看板』に取り込まれて平べったくならないようにな。人格なんて複雑なもので、一枚の看板に収まるようなものではないのだからよ。
看板を掲げていること自体を批判する気は、ない。人というのは、特に大人はそうゆうものだと思う。人は自分を、あるいは周囲を見たいように見るし、見せたいように見せる。だから、自分が見ている誰かはその誰か自身ではないし、誰かが見ている自分は自分自身ではない。自分が見ている自分だって自分そのものではない。(割と最近、似たようなことを書いたな)。それは別によいことでも、悪いことでもない。ただ、そうゆうものだと思うだけだ。だからわたしたちはお互いに、『自分は、相手の掲げた看板を、好みの色のサングラスをかけた目で見ているのだ』と知っていなければならない。それはとても寂しいことだけども。

看板を見せたい一番の相手というのは、実は自分自身だったりも、する。

2010/04/08 (Thu)


わたしは走りたかった
わたしは走りたかった
桜と雪柳と山吹に囲まれてお酒を飲んだよ。別に今日の話じゃないけど。キレイだねぇ。美味しいねぇ。
自分の背丈よりも高い山吹の茂みの中を、キャーキャー言いながら走り回る子供らを見た。羨ましくて羨ましくて気が触れそうだったんだ。大人になると、ただ走るという、たったそれだけのことが出来なくなる。走るとしたら、扉の閉まりそうな電車に駆け込むとか、通り魔から逃げるとか、あるいはジョギングとか。ねぇ。だって、ただ走っている大人って見たことある?見たことがもしあったなら、その時にどう思った?
大人には名前の無い、無意味な行動は許されていないよね。会いたかったら「会」を催し、話したかったらミーティングを開き、友達にすら名前を付ける。別に、この年にして「大人は汚いよ!」とか、そんなことを言いたいわけではなくて、大人ってそうゆうものだよねって、ただただそう思う。そして、わたしは走りたかった。ただただ走りたかったんだよ。たぶん、もう絶対に、そんなことは出来ない。雪柳の花を、根こそぎむしって空に向かって放り投げて遊ぶなんてことを、なんの罪悪感も無く出来る日々も、二度と戻らない。それは絶対に。
2010/04/06 (Tue)



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