【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


年末
クリスマスが終わった少し後の今頃の時期というのはすごく好きです。隙間って感じ。気持ちがフワフワと落ち着かず、でもどこか神妙で、何かを朗らかに諦めるような奇妙な感じ。そしてみんなが少しづつ優しくなるような気がします。空も綺麗。

今日は会社で鏡餅を飾りました。(飾るって言うのか知らないけど)仕事納めは明日29日。やること沢山だけどがんばります。
2010/12/28 (Tue)



五線紙
五線紙
つくづく自然は大切だと思った。落ち込んだり凹んだりした時に、一人で部屋にいると、どんどんその感情にはまり込んでしまって必要以上に悲観的になりがちだけど、えいやと外に出て、自然の広がりとか、奥行きとか、動きとかのある場所で30分もぼんやりすれば不思議と心が回復するということはよくある。
わたしの場合は具体的には河原で、以前、なっつさんが「流れていくものがある場所に住むのは精神衛生上よいような気がする」というようなことをおっしゃっていたけれど、川の水面をじっと眺めていると、何か余計なものが溶けて流れていくみたいで、実際に気持ちが落ち着いて元気になる。まさに水に流すという感じ。といって、別にバカみたいにモリモリに闇雲に元気になるわけじゃなくて。自分が自分自身の真ん中、あるべき場所に戻るみたいな。
前は森みたいな所が好きでよく行っていたけど(別に今も好きだけど)、それとはまた違う回復の仕方な感じがするな。なんだろうか。あと、海にはあんまり思い入れはありません。


***


写真は、以前から気になっていた喫茶店(?)。初めて入ってみました。こぢんまりしていて落ち着く。個人で経営しているような「地元の喫茶店」が無い街にはつくづく住みたくないよなー。
そういえば以前、高尾山に行った帰りに、お茶をしようと思って隣の駅で降りたら、駅前にファーストフード店と100円ショップと、携帯電話屋とチェーンの居酒屋しかなくておののいたことがある。ひぃ。
2010/12/27 (Mon)


逃げる
あまりこういった判断はしたくないのだけど、割と暗い性格だと思う。その時その時で、理由はあったり無かったりするけれど、気分がやけに沈み込むような瞬間や時期というのはしばしば訪れる。だいたいはじっとやり過ごしているけれど、これはもうダメかもと思うときも、まあ、たまにはある。
ある夜、沈んで沈んで沈んでどうしようもなかった時に、その日の昼間に聞いた会話を思い出した。会社で取引先の人と話していたのだけど、「本当は自分の上司も一緒に挨拶に伺いたいと思ってはいるのですが、実は今上司がメンタルで‥2ヶ月ほど休んでおりまして‥」ですって。辛い思いをしている本人は気の毒ではあるけれど、そんな発言が会話に入り込むような世の中も、そんな発言を物分かりの良さげな顔でうなずかせる世の中も気持ちが悪いと思い、その時にも実に嫌な気持ちになった。それがその夜には怒りになり、「自分は絶対に負けない。負けるもんか!」と思ってカッカと熱くなり、結果的に少し浮上した。
一体何に対して負けたくないのか、本当のところよくわからないけれど、少なくとも敵は『暗く沈みがちな気分』ではない。まともな人間がまともに生きていれば、そりゃあダークな気分になる時なんてのはあるだろう。それは当然気持ちのよいものではないけれど、誰だって多かれ少なかれあるのだろうと思う。それはそれとして、過ぎゆく移ろいの中の出来事として受け入れるべきものなのではないだろうか。よい気分がいつまでも続かないのと同じく、暗い気分だっていつかは終わる。
しかし、そういった自然な移ろいとしての気分の浮き沈みとは別に、社会の仕組みやらが原因となる絶望感や閉塞感や肉体的精神的な疲弊なんかは、やはりあるのだろうから、それはまた別の話として考えなくてはならないですよね。

今のメンタル市場というのは、本当は分けて考えなくてはいけないはずの、自然な移ろいとしての気分の浮き沈みも、社会の仕組みを原因とした絶望感もいっしょくたにして名前を付けてそこに放り込むことで成り立っているような気がする。
前者は、それが過ぎゆくのを待つしかないだろうし、後者であれば社会の仕組みを変えていくのが理想なのに、結果である「暗い気分」や「絶望感」などの辛さだけをどうにかしようとしているだけなんじゃないだろうか。専門家はもしかしたらきちんと分けて考えているのかもしれないけれど、少なくとも一般的にはそうじゃないかなと、感じる。
“分けて考えなくてはいけない”と書きはしたけれど、もっと言うとそれだけじゃ全然足りなくて、まず分けて考えた上で、更にそれぞれがどのように関わり合って影響し合っているのかも、その都度見ていかないといけないはずなのに。関係が無いなんてことは無いのだから。

別に辛い思いをどうにかしたいと思う個人個人を責めるつもりは無いです。責めてもよいような気もするけど、人なんて弱いものなのだから、どうにか出来るのかもしれないと思えば、そしてそれが手の届くところにあれば、どうしたって縋りたくなるもの。なるでしょうよ(そして結果として縋っていたモノがいつしか前提になるのだ)。だから、憎むべきはそういった弱さに付け込もうとする世の中であって、そんなものには絶対に負けたくないよなと、思う。『世の中』っていうのも、あまりにも漠然としているし、それを構成しているのは個人の集まりではあるのだけど‥‥。

辛くなったら友達に弱音を聞いて貰ったり、河原でゴロゴロしたり、鼻くそでもほじりながら悶々とよくわからない文章を書いてみたりして、敵から一度でも二度でも逃げてみればよい。どうせろくな現実じゃないのなら、現実逃避くらいしてみればよいじゃないか。敵に負けないためには、あえて負け犬になるのもまた、一つのやり方なのだろうね。

そんなことをモソモソと思っていました。
2010/12/16 (Thu)


11月も終わり
11月も終わり
もう何年も会っていない友達から手紙をもらった。わたしが半年くらい前(?)に出したもののお返事でした。こんな風に、忘れた頃に不意に届く手紙って本当に嬉しい。しかも新規じゃなくて、ちゃんとお返事ってところが一方的な感じじゃなくて、素敵な気持ちになるよ。

ちょっと話はズレるけど、言葉や気持ちのやりとりって、結構難しい。誰かと実際に会って話をしていても、会話を交わしていると見せかけた報告会でしかなかった‥なんてことはよくある。久しぶりに会った相手なんかだと、まずは「会っていなかった間の隙間を埋めよう」ってことになるのは自然なことかもしれないし、そうなるとその間にあった出来事なんかを報告し合うのはある程度は必要かもしれないけど、それだけで終わるっていうのも寂しいよね。聞き合いっこというか。時間的な制限があるというのも理由ではあるのだろうけど、実はそれでおしゃべりをした気になってしまうっていうのが大きいような気もする。
別に何か前向きに実のある会話がしたいとか、そんなことじゃなくて、逆にむしろもっと無意味なやりとりが(も)したいという話だったりします。大人は寂しい。

明日からは12月か。22日は冬至ですね。冬至には家でゆっくり過ごしたいのだけど、今年は会社の忘年会になってしまってがっかり。クリスマスよりも冬至が大事ですよ。(まあ別に比べなくてもよいか‥)
2010/11/30 (Tue)


春の夜みたいな
雨。駅から自宅までバイクを走らせていた。なんだか春先の雨みたいな気配だった。
今日はやたらと野菜が食べたくて食べたくて仕方がなかった。そういえば最近全然食べていなかったことを思い出した。体は正直ですな‥。
ブロッコリー、カブ、ズッキーニ、キャベツを買い込み、野菜パーティーですよ。といって、ただ切って蒸しただけ。皿に盛ったら、色が緑と白だけで寂しかった‥。しかし、ほくほくのカブに塩をかけて食べるのが美味しすぎる。どれだけ野菜に餓えていたんだという感じ。
2010/11/22 (Mon)


 
通勤電車内で。30代半ば〜後半くらいのカップルの近くに立っていた。洋服のことはよくわからないけど、二人ともたぶん割とよい物を身にまとっている感じで、お洒落なのだと思われる。で。男の方がいかにも不機嫌そうで、時折「イライラする」だの「くっそー、殺してやる‥」だのと聞こえよがしにつぶやいては、壁をガンガンと足で蹴り、周囲の雰囲気を著しく悪くしていた。まるでふてくされた中学生男子のようで、それはそれで面白いと言えないこともなかったのだけど、一方で一緒にいた女の方は彼、おそらくは夫に対して、宥めるでも慰めるでも叱るでも無く、呆れた素振りや怯えた様子見せるわけでも無く、ただただだんまりと突っ立っているのみで、かといって無関心という感じでも無かったのだけど、少なくともわたしが傍にいた30分間はお互いに一言も会話を交わしてはいなかった。
それだけで何かを判断するわけにはいかないとは思うけれど、正直すごく不思議な光景だった。あの二人が今までどんな風に関係性を作り上げ、どんな風な生活を送っているのか、一体何があったのか、あるいは無かったのか、知りたくて知りたくてたまらなくなってしまう。尾行くらいしてみたかった。
グデグデに酔っぱらった、いかにもな感じのオジサンとか、それこそふてくされたヤンキーとかじゃなくて、生活水準が高そうに見える小綺麗なカップルだっただけに、なんだかやり切れない気持ちにもなってしまった。もちろん、いかにもなオジサンが毒を吐いていたってやり切れない気持ちにはなるけど(ヤンキーはあんまり‥)、それとはまた違う種類の、何か。
2010/11/17 (Wed)


マイホーム
マイホーム
今日のことではありませんが、ジャズのライブに誘われて行ってきました。ジャズのことは全然知らないのですがドラムがメチャクチャ格好良くてソロの時なんかは手に汗握るくらいでした。面白かったです。でも、もういいや。
その時楽しめたことに嘘はないけど、じゃあまた行きたいかと言うと、それはそうでもないってことはよくありますよね。

まるで不動産屋の広告から抜け出してきたかのような人たちと遊んだ。生活感が無いとか、全然そうゆうことではないんだけど、なんだろうか。自分にとっては全く現実味が無い人たち。
わたしと同年代の夫婦、子無し、共働き、犬一匹、一戸建てのマイホーム、趣味はバイクと自転車(夫婦で自転車何台持ってんだ!?)、週末は夫婦共通の友達とバイクや自転車でツーリング(?)して美味しい物を食べたり隠れ家的なカフェを見つけたり。夫婦とも気さくでオープンな人柄なので友達も多く、近所の小学生とも仲良し‥みたいなみたいな!いや、ご本人達は本当によい人たちなんですよ、よい人たちなんだけど、あえて言ってしまえば嘘くさい。まるでドラマを見ているみたいだ‥。いや、もちろん彼らは彼らの現実を生きていてそこに嘘はないんだろうし、見たまんまの、それだけの生活を送っているとはもちろん思わないけど、それでももはや種類が違うなぁと感じてしまう。言葉は通じているのだけど、わかり会える気がしないなぁと、ぐったりしながらの帰宅。別に今日の話じゃないけど。

友達が、親(旦那様のご両親)の残した家のせいで引っ越したくともそうそう簡単に引っ越せなくて苦しんでいる。といってる自分も他人事ではないのだけど。持ち家ってなんなんだろうか。別にマイホームとかいらないと思うのだけど。
2010/11/14 (Sun)


天下のまわりもの
天下のまわりもの
すでに冬が始まりつつあるような今の時期は本当に好きだ。空気が澄んでいるのか、光がキラキラしている。そんな光の中で枯れ葉がホロリと枝から離れ舞い散る様を見ると、愛おしくて堪らない気持ちになる。
これからだんだん本格的に冬に向かってゆくのですね。


***


価格競争、サービス合戦で、全てのメニューが一律350円とかの居酒屋なんかが増えているらしい。何にしても『価格が高い=よいもの』と決めつけるわけにはいかないけれど、そのような店が増えるとなんだかみんなの気持ちがやせ細って、投げやりになったり、後ろめたい感じがしたりしないのだろうか。たとえばおじさんが自分一人でこぢんまりと営んでいる屋台のメニューが350円っていうのとはわけが違うのだよね。『高いものこそに価値がある』といった価値観がそのまんま裏返っただけみたいなんだもの。

人の念のようなものってやっぱりあって、投げやりに支払われたお金は、やっぱり投げやりな念を運んでいくでしょうな。念と言ってピンと来なければムードと言い換えても、もしかしたらよいのかもしれないけれど。
お金を使う時、それが300円でも30000円でも、同じように感謝出来るのが本来あるべき姿なのだと思うけど、なんだかお金ってみんなから憎まれているみたいで可哀想。疲れることだ。でもどうしたらよいのか、ちっともわからない。
やはり分をわきまえることが大切なんだろうか。わからないよ。

‥『不思議な少年』でも読むか。

2010/11/10 (Wed)


黒い湯
黒い湯
秋晴れの土曜日。朝から何をする気にもなれず午後2時過ぎまで布団の中で丸まっていたのだけど、重い腰をよいしょと上げて市内の温泉銭湯へ行きました。
以前住んでいた街にある銭湯で、住んでいる頃は自宅から遠かったので一度も行ったことが無かったけど、やたらとレトロで気にはなっていた。
果たして実際に行ってみたところ、なんとも情緒のあるよい銭湯だった。番台にじいさんがつまらなそうに座っていて、洗い場も湯船も広い。横浜の、とろりとなめらかな黒い温泉にたっぷり浸かれる。脱衣所は小さな中庭に面していて、風鈴なんかがぶら下がっていて、別に眺めがよいわけではないけれど、風呂上がりに涼むのにぴったりです。バスタオルを貸してくれるといったサービスがないのでアレですけど、気になる方は一度行ってみてはいかがか。大倉山『太平館』。
大倉山に20年住んでいる友人が言うには、一度、横浜walkerに掲載されてしまったことがあり、「変にハイカラになったら嫌だな」と懸念していたけれど(友人はその銭湯のファン)、そんな心配をよそにまったくもって変わりゃしないという、そんなところです。おでん屋と寿司屋の間に、ある。
今は、自宅にお風呂がないなんてことの方が珍しいのだから、銭湯はほとんど娯楽になってるけど、かつては生活の一部で、好きとか嫌いとかいう以前の必需場(?)だった時代というのが確実にあったのだよな‥。たとえその場に嫌いな相手がいたとしても、同じ湯船に裸で浸からなくてはならないという。そんな生活の中で人々は色んなことに折り合いをつけながら日々を送っていたのだよな。
今更そんな時代に後戻りは出来ないけれど、それくらいに不便な方がよい世の中になるような気がする。
といって『人情』とか『温かな触れ合い』とかっていうのを先行して求めるのなら、それは違うと思うけど。これはたぶん現代人が陥りがちな勘違いで、むしろ『触れ合わないわけにはいかない』っていうのが先にあってさ。触れあっていればそりゃあ嫌でも温かくなるし、情だってわくよねってことで。
2010/11/07 (Sun)


八景焼き
八景焼き
駅前に古くさい和菓子屋があったので、せっかくだからこんなものを買ってみた。八景焼き。あずきが入った和風マドレーヌ。美味しかった。

そういや、ああいった海辺の街にはよくトロピカルな木が植えてある。それはそれで微笑ましいけれど(←上から目線)、松の木なんかが植わっている方が風情があってよいのでは‥。
2010/11/04 (Thu)



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