【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


戦う
何物も自分のモノにはならないし、自分の思い通りになることなんてほとんど無いけれど、それでも人は幸福であれる(ことを一生をかけて証明する)」というようなことを昨日書いた。

あえて「幸福になれる」とは書いていない。


昔から「何かになる」というのがよくわからなくて、困る。

大昔にもそんなことを書いていたと想う。
あの頃はまだまだ若くて、言い方が攻撃的過ぎるなとは思うけど、今でも考えは大きく変わってはいない。

夢や目標を持ってそれに向かってひたむきに頑張るのは確かに素晴らしいし素敵だけど、それはそれ以上に夢や目標を持たない者を否定するモノではないはずなのに、どうもそれは許されていないようだ。(「お兄ちゃんには夢がない」って、なんかあったよね)

そんなこと無いとは言わせない。

世の中は、常にわたし達を何かにならせよう、何かを目指させようとしている。それは何も具体的な職業や肩書きじゃなくてもよい。ある種のイメージである場合だってある。

目指したいものが何も無い者は、たいていの場合、後ろめたさの反動でしかない開き直りの上で苦しんでるように感じる。

人には色々な段階があって、もちろん成長期にあってはそのような方法(目標を持たせる)も必要なのだろうとは思う。でも、今はそれがあまりにも過剰。正直みんな疲れてる。(そして癒しが商売になる)。

後ろめたさと戦え!開き直るな!
2011/07/14 (Thu)



月と川の間
昨日は、なんとも奇跡的な夕べであった。

ここのところずっと(たぶん何ヶ月も)、気持ちが沈み込んでいたのだけど、そんな時にはやはり、とりあえず外に出てみるべきだ。月や星や水面を眺めながら30分も川辺でゴロゴロしていると自分を取り戻せる。
取り戻せない時だって、もちろんあるだろうけど、そんな時にはそもそも「川辺でゴロゴロしよう」という発想にはならない。
重要なのは、それをしたいと思いついた時に、することが出来る環境にあることだ。

人は悲喜こもごもの中にあり、愛し合ったり憎みあったり、助け合ったり騙し合ったり、分かち合ったり奪い合ったりとそれはもう大騒ぎで日々を営んでいるけれど、それは空があって川が流れているという、もっともっと大きな営みの中での話であるのだなということは、かつてガンジス川のほとりで思っていた。

大きな橋の見える多摩川のほとりでも、やはり同じことを考える。

「自分を取り戻す」ということは、変な話かもしれないが、わたしにとっては「自分に拘らないでいること」だったりする。
世の中は自分の思い通りにならないことの方が圧倒的に多く、何物も自分のものにはならないではないか。

それでも空と大地の間で、人は幸福であれるのだということを、わたしは一生をかけて証明しなくてはならない。

生きることに過剰な期待をかけるな。世界はちゃんと美しいのだから。
2011/07/13 (Wed)


恥ずかしい写真
恥ずかしい写真
先日会ったお友達に、学生時代の懐かし写真を見せてもらった。サークルの集まりの様子らしいのだけど、とてもそんなキャラとは思えないのに、写真の中でおどけたポーズで笑っていらして面白かった!(やはり「こんな写真は後にも先にもこれだけ」とのこと)。
もう一人の同席者の写真も小さいながら見せてもらった。全然変わっていないのに、若い(そしてなんとも生意気そう)。

わたしはここ10年くらい、自分が写真に写るということがほとんど無いのだけど、20台半ばくらいまではそれなりによく撮っていて(恥ずかしいビデオなんかもある)、それがたまに見返すと、我ながらよくもまあというくらいにバカげたモノばかり。
どれもこれもバカげている上に、わたしの態度というのが基本的にいまだにバカげているので、なんのレア感も無いけれど、白いシーツをぐるぐると身に纏ってローマ風(なのかギリシャ風なのか)のコスプレごっこをしているもの等を発掘すると、さすがに悶絶する。元々コスプレ趣味はないのだが、温泉かなにかに行った時に酔っぱらって撮ったものだ。

バカげているといえば、わたしの人生最大の、とっておきの恥ずかし話というのがある。どうだろう、大した話でも無いのかもしれないけど、ある時友人達に話していたら、あまりのバカバカしさに聞いていた子の一人が笑いすぎて椅子からひっくり返ってた。
まあ、もったいないから、おいそれとここには書きませんが、わたしとすごく仲良くなったら聞けるかもしれませぬ。

ところで最近は、自分のお酒の飲み過ぎ具合を反省しており、しばらく禁酒でもしようかと思っております。少なくとも一人では飲まないようにしよう。

がんばれわたし!

2011/07/12 (Tue)


おしゃべりは沈黙のふちどり 
おしゃべりは沈黙を埋めるためのものではなく、沈黙の形を確かめる縁取りなんだと思う。
2011/07/12 (Tue)


ジィジィ
梅雨明けの炎天下、駅に向かう道は人通りが少なくて、しばらく誰ともすれ違わず、このまま世界が、フッ‥と、蒸発してしまうのではないかと不安になった。

強烈な光はその分だけ何故か終末を連想させる。
あと一週間で世界が終わるとわかったなら、いったいどんなパーティーが繰り広げられるだろう。誰に何を告白したいだろう。

「あなたに会えてよかったわ。許せないところがあったら許してね」

来年が永遠に来ないことを知ってしまったマーモは、ジンジャービスケットの香りの中、セーラの部屋の窓を叩いた。一緒に星を見たかったんだ。


真昼の飲み屋街を歩いた。なにか舞台裏を覗いているような後ろめたさやワクワク感。太陽の明るさに反して夢の続きを見ているような現実味の無さなんかがないまぜの道行き。

その日は不思議な三人組で、お酒は沢山飲みました。
人の過去に出会うというのは、まことに面白いことです。とても面白くて、とても寂しい。

寂しさには、よい寂しさと悪い寂しさがある。これは、よい寂しさ。

友人達の思い出の中に紛れ込もうと企んだのに、現実が更新されていて失敗に終わる。しかし、その日の三人組の共通の思い出にはなった。10年後くらいに、「あの日は暑かったね」と話題にしているかもしれない。そうなれば面白い。

関係者以外立入禁止。でも誰だって誰かと関係している。
2011/07/11 (Mon)


G
暑い一日であった。ギラギラした日差しの下、とある下町をあてどもなくウロウロとしていた。

狭く入り組んだ路地のくすんだ色合いの中に置かれた植木鉢の緑や赤にハッとしたり、打ち水の思いがけない涼やかさにホッとしたり。
見上げた空は小さく高く、何故かその分だけ人々の日々の営みが身近に感じられる。

どうゆうわけか、他人の家の洗濯物を眺めるのが好きだ。あの震災の翌朝にも、怯えながら乗っていた電車の窓から見えた、見も知らぬ人々の家のベランダにはためく洗濯物に、どれだけ気持ちが落ち着いたことか。
別に靴下やらシャツやら下着やらを個別具体的に見ているわけではない。人が、見知らぬ誰かが、他でもないこの場所で、生活を営んでいるのだ、ということが重要なのだ。

今日という日に食べたかき氷の美味しさは、忘れないかもしれない。


夜。引っ越し後初めて、家の中でゴキブリを見て変な声で悲鳴をあげてしまった。
申し訳ないと思いつつも死んでもらおうと格闘したけれど、逃げられてしまった。怖いなとは思うけれど、仕方が無いので諦めた。
あのゴキブリは、わたしが発見することで初めてこの世界に登場したわけじゃない。わたしが見ていない時にも、わたしが知らなかっただけで、この場所でちゃんと生きていたのだ。

当たり前。
2011/07/09 (Sat)


ベビーパウダー
わたしは通常化粧をすることがほぼ無い。一応、申し訳程度、紫外線からの保護を兼ねてベビーパウダーをはたいているけど、それだけ。あと夏なんかは、最低限の日焼け止めを塗ったり塗らなかったり。
メイクアップをした時の楽しさとか、気分の高揚感もわかるので、別に化粧することを全否定するつもりは無いのだけど、それが義務のようになってしまうのはどうなんだろう。
前にも書いた気がするけど、会社でも「本当は好きじゃない」と言いながら「でも、女の化粧は男のネクタイと同じって入社したての頃に先輩に言われてさ‥」と、毎日嫌々化粧を施している人がいる。男のネクタイが一体なんなんだと思うけど、まあ社会性の象徴なのかな。

化粧をしないわたしは男性にモテることがない。「化粧くらいして、髪を染めるとかしないとモテないよ」と、当の男性にも言われたりするけれど、化粧をしない結果としての「素顔」がモテない要因なわけではなくて、化粧をしないでいられる(あるいは化粧すら出来ない)ような精神性が問題なんだろうなと、よく思う。
だから、付け焼き刃でがんばって化粧をしたところで、モテないものはモテないのだろうよ。

わたしは、特殊な職業でもないのに髪の毛を染めたりパーマをあてたり整髪料的なモノをつけたり、あと軍人かっていうようなくらい極端に短い髪型の男性が苦手なんだけど、それも、それそのものというよりは「このような人とは仲良くなれる気がしない」という判断だったりする。
偏見と言われればそれまでだけど、そのような意味で見た目(顔形だけじゃなくて)は大事だと思っているので、それと同じなのだろうなと、うすらぼんやり思っている。

わたしが化粧をしないのは、別に何かをすごく主張したいわけではなくて、ただただ「したけりゃするし、したくなけりゃしない。しない理由は主に面倒くさい」というだけなんだけど、世の中的には、たぶんそれが既にダメで、なんというか「わかりにくい」のではないかなと。
何も塗っていないのならその分わかりやすいじゃないかと思いはするけれど、なんというか「看板」としてのわかりやすさに欠けるのだろうな。

あと「恥ずかしい」っていうのは、ある。化粧を施すのは恥ずかしい。美容院に行くのも恥ずかしい。(そんな精神性って‥)

‥‥なんてことを、昨夜はあても無く考えてました。別にどこにも着地はしない。
2011/07/08 (Fri)


南千住愚連隊初代総長
月末に、楠美津香さんのひとりシェイクスピアがまた横浜市内で行われるので行くつもりでいる。今度は『ヴェニスの商人』。(前に一度観たことがある)
先日レンタル屋で、この話の映画を見つけたので、予習(&復習)も兼ねて観てみたけど、まことにひどい話であり、ココから学べることなど1ミリもありはしない(と言ったら言い過ぎか)。
映画はちょっとシリアスな雰囲気があったけど、もっともっとふざけた切った作りにすればいいのに。

それにしても、豪華絢爛なシェイクスピア映画を観ると、つくづく美津香さんのすごさがわかる。あれをたった一人で演じきるなんてクレイジーすぎて感動的に感動する。

先日の彼女の公演は、シェイクスピアではなくて、落語、ひとりコント、朗読の3本立てで、『走れメロス』を朗読してくれた。あと、アントニオ猪木の詩とか(世に詩人多しといえど、東スポを題材にする詩人は他にいないのでは)、寺山修司とか。
他の朗読会というのを体験したことが無いのだけど、彼女の朗読は本当に好きで定期的にやって欲しいと切望している。
朗読というと、なんだか文化的で高尚で品のよいもののような気がするけれど、少なくとも彼女のそれは格闘的でシビレる。
朗読なんていうのは「声を出す」「耳で聞く」という肉体的な行為でもあるのだから、どこか体に訴えるようなところが無いと魅力を感じないのかもしれない。
2011/07/06 (Wed)


今だけは悲しい歌聴きたくないよ  
日曜日。友達に会いに電車でガタゴトと浅草まで。
自宅から浅草へ行くには、途中の表参道駅で乗り換えがあるのだが、おしゃれな人々が沢山いてなんだか気後れがしてしまい、そそくさと通り過ぎる。

浅草で何をしたかというと、別に人力車に乗るというわけでもなく、カラオケ。プリキュアを歌った。2回も歌った。
あと、本人が出演している森進一の『襟裳岬』の映像を見てゲラゲラ笑ったりしてた。不謹慎。(安い演出のくせに映像自体は妙にクリアで、進一の真面目な顔と大根役者ぶりがなんとも‥ゴニョゴニョ)。

友達からは、なかなかハードな話を聞いた。人が人としてあるには「理性」が必要不可欠であるが、私たちが思っているよりもそれはずっと脆く、危ういものなのかもしれない。

ボーナスをもらったのに欲しいものが別に無いと書いたけど、よくよく考えたらベッドのマットレスがもう寿命らしく、寝心地が非常に悪いのだった。ここのところ常にじんわりと腰が痛いのだけど、きっとそのせいに違いないと睨んでいる。
寝返りをうつ度にギシギシと軋むので、持ち寄る優しさも無いのに無駄に『I love you』(by尾崎)が脳内再生されてやるせない。
奮発して、よいマットレスを買おうかな。それか、いっそのことベッドごと新調しようかな。西川のムアツふとんとか気になるのだけどどうなんだろう。あれはマットレスとは違うのかしら。マットレス情報求む(真剣)。

ところで今読んでいる本は、かなりパンチの効いた熱い表紙なのだが、わたしにはブックカバーをかける習慣がなく、電車で読んでると、なんだかちょっと喧嘩腰な気持ちになる。
2011/07/04 (Mon)


博愛の人
金曜日は飲み過ぎた。飲み過ぎて朝まで遊んでしまった。
黒目のキレイな作家志望の若者と会った。あと最近よく会うおじさんと色々話してた。
色々話したけど、内容はあんまり覚えていない。「あなたは博愛の人だから恋愛には向いていない」とか、そのような事を言われたりとか、「人間関係は『点』じゃないんだ」と力説したりしてしまったような気がする。
「点じゃない」とは。
自分がどのようなつもりで発言したのかよく覚えていないけど、たぶん、誰にだって歴史があって未来だってあって、自分が見ていない時間や生活があるのだから、自分の見ている「その人の“ある部分”」だけを都合よく切り取るのはいかがなものか、とか、そんなような意味だったように思う。なんとも当たり前過ぎる話。

若者はコツコツと小説を書いているのだそうだ。今度読ませてよとは言っておいたけど、その「今度」があるのかはわからない。
それにしても「作家になりたい」というのはどうゆうアレなんだろう。批判とかそうゆうことではなくて、作家に限らず、自分には「なりたいもの」というのがまるでないので、すごく不思議な感じがする。

新しく知り合った人と夜中にカラオケに行って朝まで歌ったけど、面白くなかった。自分にとってカラオケは基本喧嘩なんだなと思ったら可笑しくなった。

ちょいちょい訊かれるけど、男の人の「不倫ってしたことある?」っていう質問は一体なんなんだろうか。

土曜日は丸々一日使い物にならなかった。ずっとゴロゴロしていた。

人のことってのはよくわからないけど、わからないなわからないなと思っていれば退屈はしない。
その人自身のことよりも、その人の見ているものを知った方が面白い時もある。

人は何かを成す為だけに生きているわけではないので、結果の無い楽しみがあってもいいのだろう。
「そんなことをしてどうするの?」とか「それが何になるの?」には、「意味ばっか求めてんじゃねーよ」と言っておけばよいのだ。

納得は、しなくてもよい。
2011/07/03 (Sun)



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