わたしはここ数年、割と簡単に「寂しい」という言葉を使用するけれど、ある時点での知り合いがそんなわたしを見たら、おそらく吃驚するだろうなと思う。(ある時点での自分自身ですら、吃驚するだろうと思う)
あらゆる人や物事や関係には、必ず歴史というものがあって、自分が見ている「それ」は、その歴史の流れの中で、「反動」なのか「前提」なのか、それは簡単にはわからないものだ。だから、わたしが誰か(や何か)を見て「ああ、この人はこんな人なんだな」と思ったとして、それはその瞬間においては、間違っていないのかもしれないけれど、それが全てでは絶対に、無い。
そうは思いながらも、ついわかった気になって何かを判断してしまうのは、人の頭というものは、何かを「決めない」ことには向いていないということなのだろうな。そこに「心」というものも関わってくるから厄介だ。
優れた禅マスターはその冥想中、一定の間隔で鳴らされる同じ物音に、何度でも新鮮に驚くのだそうだ。つまりその物音に「慣れない」。逆に言うと、通常の精神状態では物事に「慣れない」とか「決めない」とかということが、とても難しいということ。
「それは難しい」ということがわかっていれば、慎重にもなれる。