【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


 人の体と日常的に関わっている友人に聞いたのだけど、体とは不思議なもので、怒りが溜まっていると本当に角が生えて来るのだそうです。頭皮が固くなって小さな突起物が出来てくる。
 というか逆に、昔の人はそうゆうのをちゃんとわかっていて、だからこそあのような「鬼の角」みたいな共通のイメージというのが出来たのでしょうね。

 心を鬼に喰われないようにするには、冷静に己を観察する視点が必要だ。

2011/08/15 (Mon)



鎌倉
鎌倉
古民家カフェ。ケーキが美味しかった。

2011/08/15 (Mon)


レース編み
 土曜日にようやくネットが開通。アチコチうろうろと見て回っていたのだけど、うっかり自分が昔開設したブログに行き当たってしまって、のけぞった。
 みなさんお忘れかもしれませぬが(そして知らない人は知らないでしょうが)、わたしは、なんとボイスヒーラーなんですよ。まったく活動していないけど。活動していないけど、あえて肩書きを返上してもおりません。
 今回発掘したのは、その活動の告知用に開設したものでした。削除しようにも、最早ログインパスワードも忘れてしまった。チ。そうやって忘れ去られているサイトってのは、ネット上にどれだけあるのでしょうね。

 人間てのは馬鹿だから、何かを始めることには熱心でも、それを回収することには割と無頓着ですよな。
 たとえば。インフルエンザが流行すれば、店の入り口なんかに消毒液が置かれ始める。それはその時点では必要だったのかもしれないけれど、どこかでは必要ではなくなる。しかし誰もそれを回収することはない(場合が多い)。意味を失い、形だけが残り続ける。そうゆうの、身近に本当に溢れ返ってる。


***


 友人が出張で赴いたという和歌山県が、本当に素敵な土地だったのだそう。「仕事でいろんなところに行くけど、移住したいとまで思ったのは初めて。家を売ってでも引っ越したい」と、熱く語っていて、自分も思わず行ってみたくなった。旅行は嫌いだけど、散歩してみたい。

 友人宅で、初めて真面目に高校野球を見て熱くなった。あの北海道のピッチャーはモテそうだ。

 鎌倉の長谷駅近くにある、古民家を改装して作ったジャズのかかるカフェに連れて行ってもらった。内心「古民家カフェ(笑)」てな感じだったが(性格悪いな)、行ってみればやはり素敵ではあった。庭が草ボーボーで好感がもてた。
よく知らないけど、鎌倉を紹介するような雑誌なんかにはよく掲載されるようなのだけど、そんなに混んでなかった。

 地味な寺をうろうろしていたら、完璧な蜘蛛の巣を見つけた。レースみたいで美しかった。
2011/08/14 (Sun)


ホーム
ホーム
こちらが昨日書いたカレンダーの本体。可愛いです。この友人のセンスは、心地よくて、とても好きです。色合いとかも。ものをつくる人というのは素敵ですよな。羨ましい。

センスってありますよね。センス。このカレンダーの友人も、たとえば身に纏う衣服とか髪型とか、やっぱりなにか統一感が、ある。住んでいるお部屋も、全体的な色合いとか質感に統一性があって心地がよい。

少し話は変わるけど、本人が「これいいなぁ」と思うモノの積み重ねで、部屋の雰囲気が出来上がるわけだし、その「これいいなぁ」だって、その本人単体でのみ出来上がるわけじゃない。だから当たり前かもしれないけれど、家の雰囲気から感じ取れるのは、その人の歴史そのものとも言えるのでしょうな。(家族で生活している場合は、家族の歴史だし、「これいいなぁ」が特に無い人なら、無いなりの積み重なりが出来る)

だから人の家というのは、たまらなく面白い。
2011/08/14 (Sun)


一年で12種類
一年で12種類
今日は、ひかり回線の工事やらが入るので自宅待機。友人達にお手紙やお葉書をしたためる日にした。写真は、友達が作成した今年のカレンダーで作った封筒。意味が分かりにくいと思いますが、カレンダーとしては白地に黒文字のとてもシンプルなものなのですが、裏面にそれぞれ可愛らしい模様がデザインされていて、チョキチョキとハサミで切って封筒を作れるようになっておるのです。一年で12種類の封筒を作れる。素敵。
自分はもっと、このような可愛らしいモノに触れないとダメだよなぁ。女性としてのキラキラ度が1ミリも無いのは考えものだぜよ‥。どんぶりでフルーチェ(ピーチ味)をウホウホ食べているようじゃダメだ。ダメダメ全然ダメ。
やれ「世界がうんちゃら」とか「生と死がどうたら」とか「無心がなんとか」とか言うより他にやることあるだろうって話よ。
“「地球のためみんなのため」それもいいけど”、“チョコパフェとかイケメンとかマジで夢中”になるのも大事大事超大事だよ!

2011/08/13 (Sat)


泥とバター
泥とバター
ムンムンに月が満ちてきていますね。ムンムン。満月は明後日くらいでしたかしら。
夏の満月ということで、浪速のブルーズマンAZUMI(写真)の『泥とバター』かけてる。泣ける。ライブ行きたい。生であの声とギター聴きたい。たまにスケジュールチェックしているんだけど、なかなか合わないな。

唐突ですが、最近のガムって美味しいですね。わたしはガムとか飴とか、さほど好きではないので、積極的に食べたいとは思わず、特にガムは最後に噛んだのっていつだろう‥ってレベルなのですが、この前ひょんなことから久しぶりに噛んでみたらば、ジューシー(?)でびっくりした。お店でガムコーナーを見やっても、ものすごく種類が豊富。いやはや。
それはそれとして、そろそろ虫歯をどうにかせねば。ごまかしが効かなくなってきていて、日々おっかなびっくり食事している。ビクビク。自分はこうゆうところが本当にダメだな。子供か。

ところで、なっつさんのTwitter、鍵がかかっていて読めなくなっているのですね。がびーん。

2011/08/12 (Fri)


歌を歌う
 この年齢になって、ようやく堂々と言えるようになったけれど、わたしは歌を歌うことが好きだ。とても。「こんな気分じゃ歌えない」なんていう時にだって、本気で歌ってさえみたならば、歌はわたしを裏切らない。

 カラオケで熱唱するの大好き。
 そして、皆で声を合わせて一つの歌を歌う時の喜びというのは、ちょっと言葉では言い表せない。

 以前からゴスペルを歌うことに興味があったのだけど、「このグループいいな」と思っても、練習に通うには遠かったり、身近に参加出来そうなところがなかなか無くて残念に思っていた。
 ところが実は、2月に越してきた現在の住まいの近くには教会があって、公認のゴスペルクワイアがまさに地元に存在していることを知り、練習に加わらせてもらうことに。

 ゴスペルなんて、わたしなどは「oh happy day」くらいしか知らないから、見よう見まねでついて行くしかないわけだけど、みんなで全身で声を出し空気を響かせると、本当に元気になる。
 
 さて、雑なことを書こうと思います。

 人が生きるというのは、とても寂しいことだ。それは多分この先も自分の中で覆ることは無いと思っている。我々がこの世に生まれ落ちるということは、「おおきななにか」から切り離されて個包装されるということだから、寂しく無いわけがない。
 しかし、だからこそ我々は、喜びや美しさを「知る」という体験が出来るのだと、ぼんやり思っている。
 人以外の動物というのは、人と比べると「おおきななにか」から切り離されることなくその一部として機能しているように、見える。それ故に彼らは美しくあるのだけど、その美しさを彼ら自身が「知る」ことはないだろう。
 彼らに気高さや尊さを見出すことが出来るとしたら、それは我々が人であるが故だと思う。
 寂しさと引き替えに知り得た美しさを携えて、我々はいつかどこかへ還る。(「個人」の生まれ変わりとか前世とかはピンと来ないけれど)。それまでは、人として馬鹿みたいに右往左往するのが正解なのだろうね。

 もちろん、わたしも馬鹿みたいに右往左往してます。毎日。
 日々の生活が一番大切。

 それでもたまに「おおきななにか」との一体感のようなものを体験できたような気持ちになることがある。お祭りなんかで神輿を担いだりとか、無心で踊り狂っている時とか。それこそゴスペルをみんなで歌っている時とか、ヨガなんかもそう。
 そんな時というのは、擬似的に死を体験しているのだと思う。死は生から切り離されたものでは決してなく、同じ「何か」の表と裏で、どちらかだけでは成り立たない。だからこそ、それらを体験した後には元気になっているのでしょうね。

 言うまでもなく(しかし、言わないと伝わらないと思うので書きますが)、だからといって、死を「悲しんだり嘆いたりするべきではない」とか、そんなことは言わないし思ってもいません。

 なんて。雑なことを書いてみましたよ。
2011/08/12 (Fri)


脳内テリトリ
 会社で一番自分と関わりのある男性(席も隣)が、最近コロン的な何かを身に纏うようになった。ここ2ヶ月ほどだろうか。正直言って、それが辛くて辛くて辛くて辛くて仕方がない。

 彼のことは好きでも嫌いでもないし、または、好きな時もあるし嫌いな時もあるのだが、会社で一番関わりがあると言うことは、我が生活において、家族よりも友達よりも誰よりも、長い時間を身近に過ごしているということである。 そんな隣人が、コロン。

 毎日毎日顔を合わせていれば、楽しくおしゃべりだってするし、一言も話さない日もあるし、元気がなさそうなら心配にもなるし、苛々と腹が立って仕方がない時だってある。
 身近な人間関係なんてそのようなものなので、それはそれで構わないのだけど、匂いの記憶として脳みそに染み込まれるのは、とても辛い。

 そのコロンが臭いとかいうことではないのだが、「結果的に」臭いと感じるようになってしまいそうだ。

 人間関係、ことに物理的に近い関係を「良好に持続させる」には、どこかで「気持ちの切り替え」というのが必ず必要になってきますよね。距離感と言ってもいいのかもしれないけれど。
 匂いの記憶ってのは本当にしぶといから、一度インプットされてしまうと、その切り替えが非常に難しくなる。

 適切な距離を保てさえいたならば、気持ちの切り替えがうまく出来てさえいれば、関係が拗れることもなかったのにってのは、よくある話じゃないですか。脳内テリトリー、とても大事。席替え、したい。

 コロンとか香水なんて、恋愛初期時にだけ使えばよいのではないかと、声を大にして主張したい。(二人の距離感を狂わせるから)

 日常には邪魔なだけだと思うぜ。
2011/08/11 (Thu)


喜びの壁
この世に歌があって本当によかった!

言葉を声に出しメロディーに乗せて世界に響かせる。

あふれる喜びを皆で分かち合い
抱えきれぬ悲しみを燃やし浄化させる

心からの歌というのは、その内容に関わらず、すなわち祈りである。

震える胸。

歌があって本当によかった。
2011/08/11 (Thu)


長い長い文章の途中
今度の土曜日から、ようやく自宅でネットが使えるようになります。最近はチョロチョロ本家の日記をアップしておりますが、自宅でカタカタ書いて、そのデータを会社に持って行ってコソコソとアップしているという末期状態。
そうまでして公開する必要があるのかと言われれば、苦笑いなり照れ笑いなりをするしかない(というかむしろ笑われた方が気が楽)。まあ、要は暇人なんです。

今週末から夏期休暇で、相変わらず遠出はしませんが、会いたい人に会ったりしながら過ごします。多分。
犬にも会いに行こう。犬のお腹の匂いをしつこく嗅いで嫌がられるという、幸福。

最近はずいぶんと日が短くなった。

時々、自分が死んだ後に残る、自分の肉体について思いを馳せる。
色々な条件や現実的な事情、または感情を抜きにして言うならば、何かに食べて貰えないだろうかとは、ぼんやりと思っている。
何も別に熊やライオンのような、肉食の猛獣にガツガツ喰われるというようなダイレクトな形でなくとも、土に食べてもらえれば。
これは何か具体的な考えに基づいた意見というよりは、もっともっと根源的な感覚なのだろうと思っている。知らないけど。
強いて理屈を言うのであれば、自分の血肉骨だって、いつかは土に還るのだと思えば、それぞれが健やかに生きるべく責任感も生まれるだろう。とか。そんな感じ。

無論、死ぬまでもなく、日々我々は食べられ続けているわけだけども。

それはそれとして、お墓は欲しい。
2011/08/10 (Wed)



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