バツ10で11回の結婚歴がある女性のコラムを読んだ。彼女自身『結婚』という形にそれほど拘ってはおらず「重要なのは事実としてどのような関係を築いているかだと思う」とした上で、では何故それでも結婚をするのかというと、その判断基準は「その人の死に目に必ず会いたいかどうか」なのだそうだ。これはなかなか素晴らしい視点だと思った。
死に目に立ち会う権利は内縁者には無いということだ。
わたしはこれまでに強く結婚したいと思ったこともなければ、絶対にしないぞと決意したこともない。嘘ついた。正確には「やっぱりしたほうがいいのだろうか」と焦った時期は正直あった。もっと白状すれば結婚さえすれば色々楽になるような気になっていた事すらあった。婚活の物真似みたいな事を少ししたことだってあったのだ。そんな適当で自分勝手な気持ちでやったところでご縁などあるはずもなく、だからと言ってそれ以上に頑張って自ら縁を掴みに行くほど強く望む事は出来なかった。
子供が欲しい人であればその前段階として結婚という形を望むケースもあるのだろうが、わたしはそれについても欲しいともいらないとも特段思っていなかった。去年、子供を産み育てるという選択肢がわたしの人生から消えたのだが、それは結果でしかないし特に後悔もしていない。人間工場の部品としてははなはだ不適格だとは思うが(本当は思ってないし、この世界は人間工場ではない)、まあ税金もキチンと納めているわけだしその辺は許して欲しいところだ。
先のことはわからないが、結婚という形にドリームは抱いていない。人様とひとつ屋根の下で生活を共にするのは実に大変だろうと思う。自分の采配で自分一人を死ぬまで生かすことくらいは出来もする。ただ、人は自分の為だけに生きることには限界があるとも思うのでそういう意味ではチャレンジしてみたいと考える事がある。これはこれで自分勝手な気もするが、同じように『一緒にチャレンジしてみようか』という相手がいれば。
それに加えて今回目にした『死に目に会いたいかどうか』という視点は今まで考えた事は無かったけれど、これは今後とても重要な要素になって来そうだ。
好きだというだけでは何の権利も無いという仕組みの中で、いかに自分達の暮らしを守っていくか、というのが『生活』なのだな。
情緒の話はしていません。それはまた別の話。
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油揚げをグリルでただ焼いて味の素を少しだけ振って醤油と唐辛子で食べるのが大好きだ。大好きなのだが、もっと厚みのある油揚げはないだろうか。それかもっと薄い厚揚げ。需要はあるような気がするのだが見たことは無い。