雨降りの早朝に河原に出たら、多摩川に浮かぶ貸しボート屋の屋根付きボートの中で、猫が一匹雨宿りしながら居眠りしてた。
雨音や朝の匂い、肌で感じる気温や湿り気、足の裏で直に踏みしめる土や草の生々しい感触なんかも含めた風景の全てが、それはそれは完璧だった。
写真は、無い。
写真に納めるという行為は、その時間を自分から切り離して保管する、と、いうことなのかもしれない。
穴 |
雨降り星
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雨降りの早朝に河原に出たら、多摩川に浮かぶ貸しボート屋の屋根付きボートの中で、猫が一匹雨宿りしながら居眠りしてた。
雨音や朝の匂い、肌で感じる気温や湿り気、足の裏で直に踏みしめる土や草の生々しい感触なんかも含めた風景の全てが、それはそれは完璧だった。 写真は、無い。 写真に納めるという行為は、その時間を自分から切り離して保管する、と、いうことなのかもしれない。 |
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2012/04/27 (Fri)
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波乗り
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風向きが変わったか
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2012/04/24 (Tue)
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友人の書いたこの文章がとてもよいと思う。
http://homepage2.nifty.com/ozakit/#2012/04/20 人と人の繋がりにおいて、『会っている時間』が大事なのはもちろんだけど、『会っていない時間』というのも本当に大事なのだと思う。 むしろ『会っていない時間』こそが、もしかしたら「関係」の本質なのかもしれない。 そして、『会っていない時間』を豊かに安心して過ごすには『場』というものが重要になるのだろうな。 しかし近頃ではそれが難しいね。ネットのSNSなんかで隙間がどんどん埋められていくから。 あの手のものは、自分一人がやめればそれでオッケーというものでもないというのが問題。 ** 前からよく言っていることだけど、「有る」に気付くのは「無い」に目を向けるよりも容易い。 世界のほとんどは「無い」で構成されているのに。 |
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2012/04/22 (Sun)
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星の欠片
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どんな石ころも砂の一粒も、星の欠片なのだなという、ごく当たり前のことに、パチンと思いが至った。
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2012/04/20 (Fri)
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第八夜
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とてもとても深く美しい夜でした。
胸が熱い。 日付が変わる頃に食べたラーメンが美味しかった。 嬉しかった。 雨に降られた。 |
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2012/04/06 (Fri)
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☆
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フリーで体を動かしてると本当によくわかるけど、たとえば昨日、ある動きをしてそれが素晴らしく気持ちが良かったからといって、それがそのまま今日にあてはまるなんてことは、まあ、あまり無い。
環境も心境も体調も違うから。 色んなことに言えることだと思うけど、素晴らしい体験をした時に、その素晴らしさに執着してしまうあまり、それを手放さないでいるということは、花をガラスの中に閉じこめて枯れないようにしてしまった、なんとかフラワーみたいなものでしかない。 色褪せないかわりに生命体としてどことも繋がっておらず、いつか飽きられたとしても、朽ちることさえも許されず埃をかぶってただ古くなるだけ。 流れていったものにしがみつかず、素晴らしさや美しさ、あるいは怒りや悲しみを、その都度その場で感じて体験していくいうことは、古くなったものを「捨てる」とか「片付ける」とか、あるいは「リセットする」とかいうこととは全く違う。 流れていった全ての体験は、自分から切り離されて無くなるわけでは無いから。 そんな風な理解が訪れて、今はなんというかこの幸福感たるや‥といった感覚を保ち続けているけれど、それだっていつかは流れてゆくのだろうな。 でもね。この世界に、自分のものになるものなんて一つもないけれど、消えて無くなるものだって、別に無いから大丈夫だよ。 しかし最近文章下手だな。(あたかも以前は上手かったかのような言い方である) * マヨネーズとプレーンヨーグルトとおろしにんにく、粉チーズ、胡椒でドレッシングを作ったら美味しすぎて野菜がいくらでも食べられてしまう。主にニンジン。3本くらい普通にイケる。ムシャムシャ。 |
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2012/04/03 (Tue)
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魔法のような
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先日の、金星・月・木星がキレイに並んだ空は本当に美しかった。特に天体に詳しいわけでは無いけど、毎日なんだかんだ必ず夜空は見上げている。
一昨日まで寒そうに閉じていた白木蓮の蕾が昨日くるりとひっくり返っていた‥と、思ったら、今朝には見事に開花。キレイな魔法を見ているようで、胸がギュっとする。 世界(=移ろい)のなんと美しいこと。 ところでここのところ、ビールが美味しくない。むしろマズイとすら感じる。お酒が飲めなくなったわけではなくて、どうも味の問題みたいだ。 あんなに大好きだったのに、これは一体どういうわけなのかと寂しくて泣きたくなる。 泣きたくはなるけれど、こういった変化には常に敏感でいた方がよいように思う。 写真は先日散歩した町。 夜の少し手前。 |
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2012/03/29 (Thu)
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桜と夕日
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散歩中に、思いがけず満開の桜を見た。早咲きの河津桜。(先日の写真とはまた違う場所)
花びらの濃いめのピンクがオレンジ色の夕日を浴びて、息をのむような美しさ。よいものを見たよ。 よけいな雑念に溺れてものが見えなくなっているときには、ただ歩くという行為に集中するのがよい。 歩くのじゃなくても何でもいいから自分の体に意識を向ければいいんだけど(呼吸とか)、わたしは歩くのが好きだ。仕事中も頭がパンパンになってしまったら、無闇に社内を歩いたりしている。 歩く瞑想というのは実際にあるらしいですね。 「○○さえあれば自分は幸せ(○○が無いから自分は不幸)」という発想からはやすらぎは生まれない。○○を一時的に手に入れたとしても、結局は飢餓感のバトンリレーにしかならない。 しかしそれがわかっていても、身近なところで日常的にこんな風に発想して、イライラしたり悲しんだりしがちなのが人間の愚かさや弱さであり、また、愛おしい部分でもある。 去年の初秋、絶望的に薄暗い気持ちで歩いた同じ道を、一歩一歩踏みしめながら、新たな道を作るようにして歩く、春。 |
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2012/03/25 (Sun)
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たまご
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先日、“真冬と春先ではまるで別人みたいなんてことは普通にある”というようなことを書いたけど、「まるで別人みたい」にはなっても、「別人」にはなりませんから安心しましょう。(当たり前)。
それにしても、自分を自分として纏めているものというのは一体何なのだろう。 記憶。なのかな。 ‥‥なんてことをぼんやりと考えていたところ、友人からのメールを受信。 わたしは二十歳過ぎくらいの時に友人達と何冊か本を作ったことがあるのだけど、それを読み返してくれたらしい。 一緒に本を作った仲間の一人のKちゃんがその作品の中で「変わりたくないと思っていても変わってしまうこともある 云々」と、当時書いていたのだけど、今日メールをくれた友人(その人は本を作った仲間とは違う友達)がそれに対して「この文章を書いたKさんに会ったことはないけれど、Kさんがもしも変わってしまっていたとしても、当時そう書き記したそのままな人だよね」と。 「何を言いたいのか、うまく伝えられなくてごめん」とも書いてあって、確かに何を言いたいのかはよくわからないのだけど、なんだかわたしは救われた気持ちになった。 |
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2012/03/23 (Fri)
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