ああ。もうすぐ夏至ですね。21日。
どうも何か気持ちがザワザワしている。
穴 |
走り出す
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ああ。もうすぐ夏至ですね。21日。
どうも何か気持ちがザワザワしている。 |
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2012/06/18 (Mon)
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1400円
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「この本と出会って人生が変わりました」なんてこと絶対にあり得ないと思っていたけれど、そうでもないのかもしれないな。
たった1400円の本で世界が変わるということもあるのかもしれない。 |
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2012/06/10 (Sun)
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体に訊く
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自分にとって最高の整体師というのは、結局自分の体なのですな。
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2012/06/09 (Sat)
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発掘
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いつだったか『自分の身体の中に幸福が埋まっていて、それを発掘しているような感じが最近している』というようなことを書いたと思うのだけど、最近ますますその感覚が強くなっている。
*** わたしは毎朝多摩川で遊んでいるわけだけど、土の上に腹這いになって横たわっていると、恐ろしいくらいに精神が安定する事に気づいてしまった。仰向けじゃなくて、腹這い。 もしかしたらこんな単純なこと、誰もが知っていることなのかもしれないけれど、わたしは吃驚した。たったこれだけのことで、こんなにも安定するなんて。 なるほど、ヒト以外の動物というのは、このような世界に生きているのだなと思った。 前々から、ヒト以外の動物というのは心が無いが故に、生きていることそのものがすなわち幸福なのに違いないなどと、なんの根拠もなく思っていたのだけれど、なんかそんな感じ。 こんなことを言ってしまうと「動物にだって心はある!」など、異論反論諸々ある方も出てくるかもしれませんが、何の根拠もないし、別段にその正しさを主張したいわけでもないので、わたしとしては「それはそうかもしれませんね」としか言え無いのですけれども。 で。土の上で腹這いになっている時のあの安定感(幸福感)が、ヒトの『動物としての』デフォルトなんだろうなと、ぼんやりと思ってる。 しかし、人間には心というものがあり、自我というものもあり、生きていればそりゃあ当然色々とありますから、ずっとその状態のままではいられないわけで、それはそれでまったくもって良いのだけど、しかし、デフォルトとしてのあり方を知っているか知らないかというのは、実に大きな違いなのではないかなと、そんな風に思ってる。 ‥‥まあ、戯言です。 *** 最近、クッキーやケーキを焼きたい欲がムラムラとわいてきた。我が家にはオーブンレンジが無いのでオーブントースターで焼くか、調べてみるとフライパンで作れるレシピも色々あるので、久しぶりに何かつくってみようかと思う。あんまり甘くしないで。 |
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2012/06/07 (Thu)
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カウボーイ疾走
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今朝目が覚めたら、空気とか自分の心持ちが昨日までと何か違っている感じがした。そういえば満月を越えたからだろうか。
さて。相変わらず早朝の多摩川で遊んでる。 河原の様子も日々刻々と変化してゆき、立葵が咲いていよいよ初夏の雰囲気。わたしは秋と早春が特に好きではあるのだけど、しかし、結局、全ての季節が好きだ。 この、多摩川で遊んでいる時が、今の自分の生活の中で最も幸福を感じるのだけど、そんなにも幸福な時間には携帯電話なんか持ち歩かないから、写真も当然、無い。 切り取って保管しておきたい気もするのだけど。まあ、気が向いたら。 走ることが楽しいなんてかつて思ったことも無かったわたしが、今、走ってる。正確に言うと、『走ってしまった』ということが、何回かあった。 早朝のあまりにも美しい時間に心が動いて、思わず走り出してしまった。 走らずにはいられなかったし、正しい走り出し方だったと思う。 いつだったか、皆で花見をしていた時に、桜の木の下で子供らがおおはしゃぎして走り回っているのを、うらやましい思いで眺めていたことがあった。自分はもう大人だし、あんな風に純粋に走ることなどもう出来ないだろうと思っていた。 意味も無く、目的も無く、習慣でも無く、快楽の為でも無く、ただただ、『走ってしまった』というのは。 こんな風な衝動も、一度習慣になり、目的になり、あるいは何かの手段となり、何がしかの意味を持たせてしまうと、とたんにその純粋性が失われてしまいますね。 それがいいことなのか悪いことなのかの判断は出来ないけれど、もったいないから可能な限り意味を持たせず、習慣にもしないで、おく。 |
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2012/06/05 (Tue)
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恥ずかしい背中
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相変わらずグリーンスムージーな日々。毎日美味しく飲んでおります。
我が家のミキサーは容量が小さくて、一度に500ml程度しか作れないのが難点で、だいたい朝と夜にその都度作っています。 そう。たいていの場合一日に2回飲んでいるわけです。 先日初めて大葉を入れてみたら、これが爽やかでなかなか美味しい。「夏なんかは良さそうだな」と、一人悦に入っていたわけですが、ふと思い立って大葉の栄養を調べていたところ、『しそ油』や『えごま油』が肌の老化防止に非常に効果的ということを知ってしまいました。 俄然鼻息が荒くなり、色々と見ていたところ、抗アレルギー作用や抗炎症作用があって、肌のハリや潤いを保ってくれたり、血液をサラサラにしてくれたりするらしいのです。 (油も色々と調べてみるとなかなか面白いので、興味のある方は各自お調べください) 実はわたしは肌が弱くて、若干アトピーの気がある。ごく幼い頃はこれでイヤな思いをしたことも。 今でも人目に付く顔などは平気なのだけど、背中なんかは常に少し痒い。赤みを帯びた乾燥性の湿疹がやや目立つので、人様にお見せするのは恥ずかしい。 空気が乾燥している冬にはやはり症状が悪化して、あまりにも酷い時には皮膚科で薬をもらってくる場合もあるけど、出来れば使いたくない。 夏になれば内腿が汗疹みたいになるし、肌に関しては、割といつも何かしら少しの問題を抱えている。 炎症を沈める効果があって、潤いを保ってくれるのならわたしのこの問題にはぴったりかもしれないと思い、早速えごま油をご購入。 えごま油は、熱に非常に弱く加熱調理には不向きなので、ドレッシングなどに利用するのがよいらしいです。あと光にも弱いので、遮光瓶に入っている物を選んで、保存は冷蔵庫で。酸化しやすいので、封を開けたら早めに使い切ること。 わたしは、まずは大さじ一杯を納豆に混ぜて食べましたが、味、匂いともに気にならず美味しくいただきました。あとグリーンスムージーに混ぜたりしてる。 しばらく続けてみようと思う。背中の湿疹がキレイになったらとても嬉しい。 |
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2012/06/01 (Fri)
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悲しみ泥棒
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僕は最近とても元気で、「少しは自分も大人になってきたのかな」とか思ってる。
もちろん年齢的には充分に大人というか、すでに初老の域に入っているわけだけど。 最近はよく『境界線』について思いを巡らせていて、「他人の感情や問題を無闇に横から奪ってどうするの?」なんていうことをぼんやり考えてる。 “あなたが怒ってどうするの!怒りも迷いもタクトの権利なのよ!” とは、萩尾望都氏の作品に出てくるセリフで、正確な引用では無いかもしれないけれど、僕はこれがとても好きだ。 感情移入や共感によって救われることも確かにあるけれど、求められてもいないのに、他人の領域に踏み込んでまで、その怒りや迷いや悲しみや問題を我が物にしようとするなんて、それはつまり泥棒ではないか。 精神が未熟な若い時分には、自分と他人の区別がつかなくて泥棒行為に及びがちだったりするわけだけど。 それこそがよいことであるのだとすら、思いがちだったりもするわけだけど。 僕はもうずいぶん昔から大人なのですから。 |
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2012/05/31 (Thu)
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今週はお休み
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今週は、ビオダンサのクラスがお休み。ビオダンサは今現在の自分の中では、最も高い関心事なので、これは少し残念。
少し前にも書いたけれど、ビオダンサは一過性のストレス発散法というような性質のものでは無いから、「今日行かないとストレス解消出来ない〜!」という訳では無い。 無いけれどもクラスに行かれないことが、残念に思える。 『一過性のストレス発散法ではない』と何度か書いているけれど、これに限らず、真面目に本気で行えばなんだってそうだとは思っている。ただ、ことビオダンサに関しては「ダンスセラピーみたいな感じ」と適当な説明をしてしまうと「なるほどー。楽しく踊ってストレスを発散するんですね?」というような納得をされてしまうことが多々あるので、あえてしつこく書いています。 『徒然草』に、“インキンタムシに水を引っ掛ければそりゃあ気持ちいいけれども、そもそもインキンタムシにならないでいられるのであれば当然その方が良いのである”というようなことが書いてあるのだけど、この例で言うならば、ビオダンサはインキンタムシにならないでいられる健全な状態を保てるようにしてゆき、また仮にインキンタムシになったとしても自ら回復してゆける力を育ててゆくプログラムとでも言えばよいのだろうか。 もちろん、元々インキンタムシを患っていたのであれば、それが治癒していく過程の手助けにもなる。 そういえば、「自分の生を存分に生きるということを踊ることを通じて理解する」とか「動きに決まりは無いので自由に踊る」などと言うと、なんとなく原始的な自己解放のイメージを持たれたりとか、自分(だけ)の好きなように振る舞って良いかのような印象になるみたいだけど、それも少し違う。 確かに自由というのはビオダンサにおいては大切な要素ではあるのだけど、自由とは決して『自分の好き放題にやっていい』というようなものではない。 あくまで、まずは『環境』があり『現実』があって『他人』がいて、その中でいかに自分らしくいられるかということを理解していくということだったり、自分が自分らしくあれることで、他の人もその人らしくあれるということに繋がっていくとか、そういうこと。 それまであまりにも色々なことを抑制し続けた人であれば、 踊ってゆくその過程において、一時的に「好き勝手に振る舞う」ことを経験する必要はあるとは思うけど、あくまでそれは通過点でしかないのだと思う。 自由を貪るために踊るわけではない、ということ。 |
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2012/05/31 (Thu)
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坊ちゃん刈り
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火曜日の朝、いつものように近所の河原に行ったら、土手に勢いよく茂っていた草たちが刈り取られていた。
坊ちゃん刈りみたいになっていてなんだか気恥ずかしい。刈りたては恥ずかしいものだ。 |
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2012/05/29 (Tue)
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