【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


ワンピース
いつも可愛い格好をしている友人がいる。
彼女の地元で、たかだかわたしと会うだけでも、ちゃんと可愛い格好をしていて、内心密かに感心していたのだけど、何かの会話の拍子に「私、洋服は着てなんぼだと思ってるんだよね。『もったいないから』と言ってせっかくの可愛い洋服を着ない人もたまにいるけど」というような意味合いのことを言っていた。(正確な言い回しは覚えていない)
その時はなんとなくフンフンと聞いていただけだったのだけど、後になってそれがジワジワと効いてきた。

「もったいないから」と言ってせっかくの素敵な服を着ない人とは、まさにわたしのことだなぁと。少し前にも似たようなことを書いたけれど(いつか来るであろう悲しみに怯えて今目の前にある喜びを出し惜しみするって話)。

「これは“おでかけする日”用に取っておこう」と仕舞い込んでいても、じゃあその日は一体いつ来るんだって話で。もう、本当にそういうのはやめようと思う。
‥‥そんなわけで、最近は何もなくてもワンピースなぞ着ています。

これはたまたま洋服の話だけど、つまり精神的にケチくさい人間にはなりたくないということ。無駄な贅沢はしたくないけど、ケチはダメでしょう、ケチは。なんというか、風通しが悪くなる。

今さらだけど、素敵な人でありたいなと思う(見た目だけの話ではなくて)。
それは、自分の為というのはもちろんそうなのだけど、自分で自分を素敵だと思っていないと、自分に関わる人達にも失礼だなと、急に思った。
今まで割と『自分のことなんか好きでも嫌いでも周囲には関係ない』というような感じでいたけども、人間いつまでもそんな楽なところで安穏と過ごしていてはいけない。


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バレエは体をなまけさせちゃおしまい
普通に生活してると
どんどんラクな方に流れてしまうから

その流れを断ち切って
まず はい
姿勢をよく背骨を伸ばすように意識して
あごをひいて
ななめ上の方にある
きれいな星を見るように


『Papa told me/ Episode77:オデット オディール』より

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2012/07/16 (Mon)



自家製酵素ドリンク
瓶に仕込んでから外出をして、数時間後帰宅したら素材からずいぶんと水分が出て、かさが4分の1ほど減ってきていた。微妙に発酵臭もするような。

ジーッとジーッと眺めていると、とても楽しい気持ちになってきます。ピッチピチのよい酵素に育っておくれよ。

こういうのを見てると、ぬか漬けとかも楽しいんだろうなと思う。パン作りとかも。

そうそう。先ほどの記事の【作り方】で、『素手で混ぜる』と書いているのは、自分の手に住んでいる菌が混ざって繁殖するからだそうです。(それこそぬか漬けとか味噌とかもそうだよね)

あと、『蓋を閉める』とも書いたけど密閉はしない方がよさそう。酵素が窒息しちゃいそうだもんね。

ところでネットで自家製酵素ドリンクの作り方を見ていると、グラニュー糖とか白砂糖を使ってるレシピがけっこうあるけど、あまりよろしくないのではないだろうか(大きなお世話)。

なにはともあれ上手く育つといいな。



続く
2012/07/14 (Sat)


ベラベラ
最近は暑いので朝の河原歩きはお休みしている。また秋になったら再開するつもり。
その代わりというわけでは無いけれど、朝は室内で体操をしたりジベリッシュをしたりしている。

ジベリッシュというのは一般にはなじみがないかもしれないけど、瞑想法の一つで、具体的に何をするのかというと『意味のないおしゃべり』。
意味のあることは一つも言わないで、ベラベラと話す。なんちゃって中国語でもいいしイタリア語風でもいいし、お経チックでもいい。

歌うようにささやくように、あるいは怒鳴るように泣くように、ひたすら話す。

それがなんだと言われるとアレですが、まあ騙されたと思ってやってみてごらんなさいな。10分も続けると、我々が日常いかに言葉に縛られているかがよくわかるから。言葉が悪いとはもちろん言わないけど、たまには頭から言葉を外してみると、色々とわかることがあったりする。
悲しいと思っていた「何か」は、実は悲しみではないのかもしれないよ。やれば、わかる。

ボイスヒーリングでも、意味のない『音』を声使って表現して、心と体のクリーニングをするのだけど、それがもっと手軽になったような感じ。


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さて。グリーンスムージー生活は相変わらず続けていますが、もう一歩踏み込んで自家製酵素ドリンクを作ってみることにしました。
グリーンスムージーは、要するに食べ物を消化することに使っているエネルギーを出来る限り節約することと、効率よくエネルギーを取ることを目的にしているのだけど、ここでいうエネルギーというのが、つまり酵素のことなのですよね(たぶん)。

生野菜から酵素をとるにしても大量に食べないといけないからグリーンスムージーのように液状にしているわけだけど、それでもやっぱり限界がある。ということで、生野菜や果物を発酵させて酵素そのものを抽出したものを飲もうというわけです。
最近この『酵素ドリンク』なるものの存在を知ったのだけど、買うとなるとメチャクチャ高い。平気で15000円とかする。で、作ることにしてみました。普通に手軽に作れるみたいなので。


【用意したもの】

・てんさい糖 4袋(一袋700グラムだった)
・てんさい糖と同じくらいの重さの果物と野菜。(今回はパイナップル・キウイ・プラム・サツマイモ・人参を用意)
・果実酒を作る為のあの瓶(8リットル用)


【作り方】

・果物と野菜はよく水洗い。皮もパイナップルの葉っぱも全部使うから、とにかくきれいに洗う。

・材料をひたすら切る。カレーの具くらいのイメージ。包丁は使わない方がよいとか書いてあったりするけど無理なのでザクザク包丁で切る。

・瓶の底にてんさい糖を敷き、切った果物と野菜を入れ、その上にてんさい糖をまぶし、果物と野菜を入れて‥を何回か繰り返す。(ミルフィーユ状態)

・全部入ったら素手で混ぜ合わせる。

・ふたを閉める

‥後は、常温で保存して、一日1回は必ず素手で中身を混ぜていると、10日くらいで発酵してくるらしいです。飲めるようになるまでは一ヶ月くらいかかるのかな。楽しみ過ぎる。

出来具合は随時レポートしてゆくつもり。たぶん。

2012/07/14 (Sat)


安心
何者にもならなくていいけど「あの人に会うと、なんか知らないけどちょっと元気になるんだよな」というような人でありたい。
今日久々にあった友人とおしゃべりしていて、改めてそう思った。
2012/07/07 (Sat)


サレンダー
わたしはわたしのことを大切に扱ってくれる人や場所が好きだなと思う。
それは何もむやみにチヤホヤして欲しいとか、わたしの思い通りに動いて欲しいとか、わたしのことを最優先に考えて欲しいとか、そういうことではなくて、最低限、わたしやわたしの時間を尊重して欲しい。もちろんわたしも相手や相手の時間を尊重したい。

‥‥そんなの本来ならわざわざ言うまでもなく当たり前のことなのだろうけど、そんな当たり前のこともわからないくらいに、わたしの自尊心のレベルは低かったのだなと、なんか今さらながらしみじみと思ってる。
自分の自尊心の低さは自覚していたつもりだったけど、なんだろう、急に自分が可哀想に思えてきた。自分で自分のことを粗末に扱っていると、周りから粗末に扱われることに対しても鈍感になるものだなと。

特定の誰かや出来事のことを書いているわけではないけれど、わたしは誰かから粗末に扱われていることを薄々感じたとしても「これはこれでオッケーなんだ」と、無理矢理それを肯定的に考えようとしていたところがあった気がする。積極的な肯定ではないけど、消極的肯定というか。「仕方がない」的な。
変なのね。変だよね。オッケーなわけないし、それではいつまでたっても健全な関わり方なんて出来ないし、相手にだって悪い影響を与えることになるのに。
‥‥ものわかりが良いわけでも優しいわけでもない。逃げていただけだ。恥ずかしいから認めたくはないけど、でも、そういうことだったと思う。

相手を打ち負かす為の自尊心ならいらないけど、健全で対等な人間関係を結ぶためには、それぞれの適正な自尊心というのが非常に大事なのだな。
低すぎる自尊心は自分のみならず周囲をも疲れさせて、交流に滞りがおこる。意識の有無に関わらず。

なんか。憑き物が落ちたみたいな。

結局、わたしはどこか自分の人生に対する責任から逃げたかったのだろうなと、そんな風に感じてる。

気持ち悪いかもしれないけれど、今までわたしに関わってくれた全ての人に「ありがとう」と「ごめんなさい」を伝えたい気持ち。

そして「これからもどうぞよろしく」。
2012/07/01 (Sun)


ガタゴト
季節柄なのか、近頃は店頭に並ぶ果物の種類が豊富でとても嬉しい。
わたしには、もともと果物を食べる習慣はあまり無かった。誰かが皮を剥いて食べられる状態にしてくれたものを目の前に運んでくれれば美味しく食べるけど、自ら進んで買ってまで食べることは、ほぼ無かった。
2年くらい前から、年齢的なものなのか、たまに食べたくなって買うようにはなったけど、それでもそんなに積極的には食べなかった。

わたしにとって果物というのは、何か『敷居の高い』食べ物だったのですよね。何故だかは知らない。まあ、安いものではないし、無ければ無いで構わないわけだから、贅沢品ではあるのだろうけど。
ちなみに、母は果物が好きな人だから、実家では何かしらよく食卓に出てたので、生い立ち云々の話では無いはず。

それが今や果物無しの生活なんて考えられないほど、毎日必ず何かしら家に果物がある。下手したら3種類くらいある。もちろんグリーンスムージーに使うためなんだけど、そうじゃなくても普通に食べてる。
なんと言うか、そんなに身構えて食べなくても別に良かったのかと、そんな風に気が楽になったのだなと、今コレを書きながら思った。


最近は桃が出始めたので、念願の生の桃と春菊のグリーンスムージーを作ったら、やはりひっくり返るくらいに美味しい。(以前、桃缶と春菊で作ったら美味しかったので桃が出回るようになったら絶対に作ると決めていたのだ)。
もう少し複雑にして、春菊・パセリ・桃・バナナで作ったらさらに美味しくて、これで半日は幸せでいられるくらい。『満たされる』とはこのことかと。
先週だったか、生まれて初めてライチを買った。ライチなんて、皮の剥き方も知らなかった(別に普通に剥けたけど)。ライチは甘味が強いから、グリーンスムージーを作る時は、そんなにたくさん入れなくてもいいので、その分葉っぱをたくさん取れてなかなかよろしい。美味しいし。
昨日は、これまた生まれて初めてパイナップルを丸ごとで買った。小さいやつ。これは一体どうやって切ればいいのだろうか。

ああ、大きいミキサーがとても欲しい(今使ってるのは500ml弱しか作れないので)。


***


今日は思い立って、ガタゴトと赤い電車で祖父祖母のお墓参りに行った。
自分はキチンとお墓参りの習慣があるわけじゃないのだけど(というかほとんどしない‥)、何日か前にお墓参りの夢をみたので。なんとなく。

お墓に着いてから気付いたけど、昨日が祖母の命日だった。祖父も6月だった。そう言えばそうだった。新しい花が供えられていたから昨日誰かお参りしたのだな。

そうかそうか。

わたしは元気に過ごしてるので安心してくださいと報告して帰ってきた。
2012/06/30 (Sat)


星を読む人
昨夜、お風呂掃除をしていた時にふと、「‥‥残念ながら、いつか来るであろう悲しみに備えて喜びを蓄えることは出来ないんだよね」と思った。こんな簡単なことが何故今までわからなかったのか不思議なくらい自然にそう思って、思った後になんだかびっくりした。
わかっていたつもりだったけど、それは実は『知っていた』だけで『わかって』はいなかったんだなということが、わかったみたいな。

いつか来るであろう悲しみに怯えて、『今ここ』にある喜びを出し惜しみする癖が自分にはあった(ある)なと、ストンと腑に落ちた。色々と。本当に色々と。

それが一体どういう理由からなのか、正確なところはよくわからない。最初に書いたように、喜びを蓄えておこうと思ったのか、あるいは「どうせいつか悲しむのならば、今喜んでも無駄」と思っていたのか。‥たぶん、両方。

たとえ話になるけれど、美味しい果物が目の前にあるのに、無くなるのを惜しんで食べないとか。どうせ汚れてしまうのだからと言って、掃除をしないとか。そんな感じだろうか。果物は食べなければ干からびて固くなるし、掃除をしなければ感覚が鈍くなって、どんどんものが見えなくなってくる。のに。

わたしは無意識のうちに、そのようなことをずーっとずーっと繰り返して来たように思う。

感情じゃなくとも、これを例えばエネルギーと言い換えてもいい。今元気なのであれば、元気のままでいればいいのに、いつか来るであろう『やる気の無さ』に怯えて『今ここ』にある、ピカピカのエネルギーを出し惜しみしていることがよくあった(ある)。

ああ、そうか。そういうことだったのかと。

それはただそうであったというだけなので、今まで気付いていなかったその癖を、否定的なジャッジのもとで自分から切って捨てるようなことはしませんけれども。


***


文筆家の石井ゆかりさんがとても素敵です。

彼女を知ったのはTwitterでの毎朝の当たらない占いなのだけど、いつも楽しみにしている。占いにありがちな「良い日」「悪い日」の判断を一切せずに、星座ごとのその日の「雰囲気」を伝えてくれるのだけど、紡がれる言葉の美しさ、温かさ、奥行き、面白味。

先日、恋に悩む女性への連続リプライを読んだのだけど、他人事ながらジーンとしてしまった。回答の内容もさることながら、悩める想いへの寄り添い方、気持ちのくみかたが本当に真摯で温かい。

悩みの内容は「数ヶ月前に振られた男性がいる。振られたけど嫌われてはいない。でもメールやTwitterでのリプライに返事をもらえずとても辛い」というもの。(原文のままではないので、微妙なニュアンスはアレですけど‥)

以下がゆかりさんのリプライ。(※相手の方のIDは伏せます)


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@☆☆ 振られても友達として仲良くしてもらいたい、っていうお気持ち、よくわかります。でも、それは実は気持ちではなくて、「考え」じゃないでしょうか。「考え」は、「友達になれるし、仲良くして欲しい」ですよね。


@☆☆ でもほんとのほんとの「気持ち」は「やっぱり恋を受け入れて欲しい」じゃないでしょうか。心の奥底では、「だんだんリプしていればリプを返してくれて、それで、距離を縮めて、いつか、抱き合いたい」って思っていないでしょうか。


@☆☆ その密かな期待がなんとか、着地点を見いだすまでは、相手に対する一切のコンタクトを、一度、とめた方がイイと思います。


@☆☆ ☆☆さんから見ると、「相手が自分に答えてくれない」と思えているわけです。でも相手の方から見ると「☆☆さんは自分が言ったことを受け止めてくれていない」と思えているんじゃないでしょうか。


@☆☆ お互いに「相手は解ってくれていない」と思っている、これは、悲しいことです。☆☆さんが、振られても心のどこかで「でも、嫌われてはいないのだから接し続けたい」と思ってしまうのは、あたりまえのことで、自然な事です。だれだってそうです。


@☆☆ でも、自分の思いと、相手が何を望んでいるか、ということは別のことです。リプライに答えてもらえなくてへこんでしまうなら、辛いですが、「話しかけても答えてもらえないのだ」ということを受け入れるしかないのではないか、と思います。


@☆☆ 自分の気持ちを責任持って守る為にも、一度、自分からのコンタクトを諦めるしかないんじゃないでしょうか。返事が来なくても大丈夫、相手のために声をかけたい、とおもえるまで、声をかけない、というのも、一つの方法です。


@☆☆ 「自分の気持ちに疲れた」とおっしゃってますが、まさにその通りだと思います。自分で自分の気持ちを疲れさせてしまっているんだと思います。ですから、自分の心を少し「お休み」させるためにも、その方とは、距離を置いてみては、と思いました。

【※ココで相談した女性からのお礼のリプライ】

@☆☆ さぞかし、お苦しいと思います。失恋はだれにとっても、耐えがたく辛いものです。でも、失った恋を醜いものにするか、美しいものにするかは、いつも、最後のところでは自分の行動にかかっているんだと思います。期待ではなく希望をもって、頑張って下さいね!


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「そんなことで悩んでも仕方ないじゃない」と、その想いを突き放すことなく(そういうタイプの人っているよね)、また、キレイ事で済ますわけでもなく、自分がこの女性だったら、きっと号泣すると思う。人のことなのに涙出てきたもの。

ゆかりさんのこの胡散臭さの無い素敵さは一体どこからくるのだろうか。とても知りたい。

彼女の著書をボチボチ読んでみようと思う。

2012/06/29 (Fri)


今年初めてのさくらんぼ
今年初めてのさくらんぼ
昨日は久しぶりに焼肉を食べた。美味しい焼き肉と石焼きビビンバ。

グリーンスムージーを始めてから、とにかく粗食な生活で、食べる量もグッと減った。
自分の一食分の適量の目安を知っておくのは非常に大事だと思うのだけど、わたしの場合、それはトウモロコシ一本くらいかなと最近思ってる。先日夕食代わりにトウモロコシを食べた時に「あ、すごくちょうどよい」と思ったのです。我慢しているわけではないし、体調もすこぶるよろしい。
しかし、適量は日によっても素材によっても違うだろうから、横着しないで、その都度自分の体と相談しながら調整するのが一番ですね。『決めない』ことが大事。

それはそれとして、たまに食べる焼き肉の幸せ感たるや震えるレベル。とてもとても満足なので、当分はお肉はいいやという感じ。

我慢をしている状態が基本で、たまのご褒美(?)にお肉を食べるというのと、フラットな状態からナチュラルに「お肉が食べたい」と思って食べるのでは、結果としての行為は同じであってもその質は決定的に違いますよね。

最近は何を食べてもとにかく美味しい。なんてこと無いトマトに塩を振っただけのものや、単なる焼き魚などにいちいち感動してる。

食べ物が美味しいというのは本当に幸せで、大げさではなくて、近頃の自分の『生命力』の健全さをひしひしと感じている。


***


変化について。

この前少し書いたボディーワーク。ものすごく簡単に説明してしまうと、体の奥深いところに残っている負の感情を解放するというものなのだけど、友人に「それをやることでどう変化するの?すっきりするの?」と訊かれたので、しどろもどろに説明をしながら、自分でも「なるほどな」と思ったこと。

実際にすっきりするかどうかというと、すっきりする。体も非常に軽くなってくる。
で、日常の変化というと、ごく一例だけど、たとえば対人関係において、今まで言えなかったようなことを普通に言えるようになっていたりしている。
何故『言えるようになる』ではなくて『言えるようになっていたりしている』という微妙な言い回しなのかというと、それはたとえば「これは言わなくては!今までの自分とは違うのだから!」というような力の入ったものではなくて、ごくナチュラルに『言っている』ので、自分が変わったとも別段に思わないのです。
ただ、後になってふと「あれ、そういえば‥」と気付いたりする。そうなると逆に何故今までそれが言えなかったのかというところに思いがいくのだけど、『怖かったから』なんだろうな、としか言えない。
「こんなことを言ったらイヤな目に合う」という【何か】が体に残っていたから、それが言えなかったり、言うにしても必要以上に緊張感が伴ったり、あるいは「言う」という発想すら無かったりしたのだろうなと想像している。

その【何か】を解放したことで、フラットな状態から『言う』が出来るようになっているみたいで、もしかしたらそれを言うことで結果として何かイヤな思いをするかもしれないけど、それはそれなんだろうなと。
簡単に言うと『言う』ことに対して不必要な警戒心が無くなっている。

警戒するということは、生きる上でとても大事なのは言うまでもないことで、恐れや不安や緊張自体が消えて無くなるなんてことは無いけれど、適宜適正な警戒心でいられる、ということです。

ありとあらゆる【何か】が体に残っていると、何に対してどのようにどれくらい警戒すればいいのかもわからなくなるものなのだなぁと、実感している。

体や心が軽くなって景色が少し変わったような、そんな感じ。

2012/06/24 (Sun)


橋を渡る
橋を渡る
夏至。橋の上で日が暮れるのを眺めてた。今年は涼しかった。
夏至と冬至は毎回到達感があるけど、今回は台風と新月も重なってさらにスペシャルな感じ。

唐突に、これからの生き方についてのヒントのようなものを思いついて、少しだけ興奮した。


***


半月ほど前に知人に教えてもらって以来続けているセルフボディワークについて、長々と書いた文章があるのだけど、どうにもアップする気になれない。

体に残っている、今はもう不必要な感情を解放したら、身も心もこんなに軽くなるのかということを日々喜んでいる。
「捨てる」とか「リセット」だなんて、そんな一方的なことは言わないよ。どんな感情であれ、それは今までわたしを守り続けてくれていたものなのだから、愛おしさはあっても疎ましさなんか、無い。

フラットでいることの大切さと影響力。


***


気が付いたら若干腹筋が割れてきた。
2012/06/22 (Fri)


フェスティバル
夏至ノスタルジィ

雨に降られた夜中の散歩道

夜明けのドラゴンは終わりと始まり

緑の風景
光と影

打ち捨てられた掛け布団
暑いから

ええ  ご存知の通り僕は普通ではありませんから
欲しいならこの目をあげてもよいのです

はい ではお訊きしますがお元気ですか?
僕はとても元気でまるであのフラミンゴのよう

それじゃまた


では どこまでも

ああ それじゃまた
どうかお元気で



振った手がちぎれる前にどうか
2012/06/20 (Wed)



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