【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


湘南
湘南
2012/10/13 (Sat)



いけないことを数えて生きるならアナタだけでしてね
いけないことを数えて生きるならアナタだけでしてね
わたしの食生活というのは

朝:フルーツスムージー(たまにグリーンスムージー)に酵素ドリンクを入れたもの
昼:果物のみ2,3種類
夜:好きなもの(お酒も飲む)

というスタイルが基本なのだけど、会社などでそれを知っている人によく言われるのが「まだやってるの(続けているの)?」というもので、実にピンと来ない。これが普通なので「まだやってるの?」と言われても、実際、困るわけです。(一日3食食べている人に対しては「まだ続けているの?」とも「よく続くね」とも言わないのにね)
『認識を改める』ということが苦手な人がこういうことを言うのであろうなと思っている。

10年ほど前にタバコをやめた時も、20年ほど前にシャンプーや洗顔料を使うのをやめた時にも、同じようなことを思った。
わたしはそれらを『やめた』のだけど、いつまで経っても「まだ禁煙続けているの?」「まだ石鹸で頭洗ってるの?」と訊く人というのがいて、さらに「偉いね」とか言われることもあり、それがとても不思議だった。「タバコは吸わないので禁煙はしていません」とか「ええ普通に石鹸を使ってますよ」とか答えていたけれども。(そして別に偉くない)
そりゃあ、やめた当初というのは、確かにそれぞれ『禁じている』という状態ではあったけれども、状態は刻々と変化してゆきくわけですから。

もしかしたらこの先、一日3食食べるようになったり、あるいはタバコを吸うようになったりするのかもしれないけれど、だとしても、それは『禁を解く』わけではなくて、『変化』です。

あらゆる面で認識の更新がしなやかに行われている人の人生というのは、途切れることなくスムーズに連続しているだろうし、それが苦手な人というのは、認識を力ずくでリセットして、過去を切り捨てながら生きるのだろうな、なんて思うがいかがか。
わたしは、どうせならしなやかに連続した人生を生きたい。

ところで、今日ひょんなところで素敵なことを知りました。
『挨拶』という漢字1文字1文字にはそれぞれ意味があって

『挨』=心を開く
『拶』=その心に近づく

なのだそうです。素敵だ。

挨拶は『した者勝ち』だと思うことにしている(『出来ている』とは言わないが)。
挨拶をしない人がいると、カチンとしたりするんだけど、そういう人はそれだけで既に損をしている(負けている)わけだから、勝っているはずのこちらが腹を立てるのももったいない話だねってね。
2012/10/12 (Fri)


LSD薔薇戦争連続公演
LSD薔薇戦争連続公演
来月、楠美津香さんのひとりシェイクスピア超訳薔薇戦争連続公演があります!行かなきゃ!

http://www.kusunoki-mituka.com/information/index.html#info76

日程は以下のとおり(開場は開演30分前)

2012年11月1日(木)19:30 超訳リチャード二世
2012年11月2日(金)19:30 超訳ヘンリー四世
2012年11月3日(土)14:00 超訳ヘンリー五世
2012年11月8日(木)19:30 超訳ヘンリー六世 part 1
2012年11月9日(金)19:30 超訳ヘンリー六世 part 2
2012年11月10日(土)14:00 超訳ヘンリー六世 part 3
2012年11月11日(日)14:00 超訳リチャード三世

超訳薔薇戦争連続公演予告編(2009年)
http://www.youtube.com/watch?v=jfgqHNVEJ48&sns=em

写真は、2009年に行われた連続公演の記念品。
2012/10/11 (Thu)


傘を広げる
傘を広げる
昨日から今朝にかけて、なんだか気分が沈み気味でちょっとイライラしたりやけに悲観的になったりしていた。そういう時というのは、身近にある便利な悲しみに手を伸ばしたくなるもので、やっぱりわたしもそのように対応していた。

しかし、「待て待て。わたしはもうそうやって安易に『悲しみのネタ』に頼らないと決めたよね」と思い直し、少し考えて【肘湯】をしてみることに。

だいたいこういうのは無意識に自動的に行われている『反応』みたいなものなんですよね。『気分』が先行してまずあって、それに合った悲しみや怒りをでっち上げたり見繕ったり。身近にある『悲しみのネタ』をわざわざ引っ張り出して、その『沈んだ気分』を正当化するというか、納得させるというか、そういうことです。
でも、その先行してある『気分』というのは、実は、身体の状態から生じていることが、どうやら多いらしい。

肘湯というのは、そのまんま肘から先をお湯に浸けるだけなんだけど、これをやると胸や肋骨の緊張が取れて、それだけで呼吸が深くなるのだと、ブリージングで教えてもらっていた。教えてもらってはいたけれど、実際にやってみたことはなかった。面倒臭くて。
で。今朝やってみたらば。てきめんに楽になりました。肘から先をバケツに張ったお湯に浸けて「わぁ、温かい〜、気持ちいい〜」って思っていたら、じきに『ふぅ‥っ』と、息が抜けた。ふぅと息が抜けてみて初めて、「ああ。わたし、息が詰まっていたんだな」ということがわかった。
5分ほども浸けていたらイライラも悲観的な気分も晴れていましたよ。呼吸と一緒に抜けていったんだろうな。
「だったら、イライラしたり悲観的な気分になった時は、肘湯などという面倒なことをしないで、直接深呼吸すればいいじゃない」と思われるかもしれないし、実際にそうなのかもしれないけど、呼吸が浅い時(息が詰まっている時)というのは、結局身体が緊張していたり歪んでいたり冷えていたりするからこそ、そのような呼吸しか出来ていないわけで、そんな状態で深呼吸をしようとしても、『普通の人』は上手く息が抜けないのでしょうな、多分。
だから、体操や半身浴や足湯、肘湯などで、身体を整えることが大事なのでしょう。以前古久澤院長がおっしゃっていたのは、そのような意味だと理解している。(←9月20日の日記に書いてあります)

呼吸と一緒に『その気分』が抜けていくと、どんなに『悲しみのネタ』を並べ立ててみても、まったく悲しくならない。何故ならそれは『悲しみ』そのものではなくて、『悲しみのネタ』でしかないから。
自分が『悲しみ』だと思いこんでいるモノは、もしかしたら『悲しみのネタ』に過ぎないのかもしれないよ。

振り返ってみると、ちょうど8ヶ月前のわたしが、まったく同じようなことを書いている(2月8日)けど、当時のわたしは、具体的なアプローチの方法を知らなかったから、気分を『天気のようなもの』と表現し、ジッとそれが過ぎ去るのをただひたすら待っていたけど、やっと『雨が降ったら傘を広げる』くらいの知恵はついたのかもしれない。

傘の存在を知らなければ、それを広げることは、出来ない。



写真は久々に会ったアグセンセー。ますますじいさんになっていて切ない。
2012/10/08 (Mon)


勉強が嫌い
度々書いているような気もするけど、わたしは我ながらよくぞコレで今までやってこられたなというくらいに、なにしろ勉強が出来ないし嫌いで、まずノートの取り方からしてよくわからないわけです。自分勝手に適当な文章を書くのであれば(たとえば日記とか)いくらでも書けるのだけど、学校の授業のためのノートを使い切ったことって、たぶん、無いと思う。

だのに。ブリージングのクラスでは(この話ばかりで本当にすみません‥)わたしは必ずノートを傍らに置いて、その日にやったこと、聞いた話を走り書きしている。体操をしながらだから、キーワードだけをとにかくグチャグチャとメモして、後でそれを解読しながら別途清書というか、まとめていて、よく顔を合わすクラスメイトの何人かは「偉いねー!」とおっしゃってくださるのだけど、わたし的にはこれは本当に例外中の例外であって、頑張っているというような意識もなく、それも含めて楽しいので、別に全然偉くも何ともないのです。まあ、遊んでいるようなものです。

で。今日は古久澤院長のクラスだったのだけど、院長のクラスはとにかく情報量が多くて密度も濃いので、追いかけるのが大変。大変だけど実に面白い。

たとえば、「肩の位置が1ミリ下がるだけで、人の気持ちはガラッと変わる。」ということから始まり、以下正確な引用ではないけれど、
「人の性格というものは、身体の状態次第でどんどん変化するものなのだから、身体の歪みや冷えからくるネガティブな心持ちを『これが、そもそもの自分の性格だもの』と思い込んで諦めてしまう必要なんて全く無い。身体を整えて素の自分を取り戻しさえすれば、出来ること、やりたいこと、いくらでも出てきますよ」
というようなことを話されていて、これにはわたしは胸が震えて、正直泣きそうになった。
上記のように、文字として記載してしまうと、それだけではなかなか感動というのは伝わらないとは思うのだけど、文字を介さずに『口から耳に』というダイレクトな空間では、言葉の意味以上のものが伝わるものです。その『言葉の意味以上』の『何か』を文字で表すのは大変に難しいのだけど、つまりそれが『愛情』だったり『情熱』だったりするのだと思うんですよね。


2012/10/07 (Sun)


死ぬための生き方
死ぬための生き方
最近の日記がブリージングのことばかりで大変に恐縮ではありますが、また書きます。

少し前にブリージングの『顔』がテーマのセミナーに参加したと書いたのだけど、その後ブリージングの会員のTさんが書いている『チンパンのブログ』にその時の様子が紹介されていて、さらにブリージングにおける『美顔』の解説もされていたのでフンフンと読んでいた。
(『チンパンのブログ』→ http://ameblo.jp/senkotu/

以下の一文が素晴らしいので、ご本人の了承を得て紹介。

--------------------------
 そもそも、美顔術の最終目的は、『どんな顔で死にたいか』ということ」
「死に顔は、すべてを語る って言うもんね」
「だって、人間の最終目標は、『死ぬ』ことだから。
 いま生まれたばかりの赤ちゃんも、たぶん百年後には死んでいることだろう。
 どんな顔で老いたいか、どんな顔で死にたいか まで、ブリージング美顔術は射程に入れて構成されている」
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‥‥『どのように生きるべきか』を考えるならば『どのように死にたいのか』に思いを馳せないわけにはいかないだろうなと、薄々思ってはいたけれど、これを読んで意外と『死に顔』の事までは考えていなかった自分に気づいたよ。
というか、今までそれほどまでに自分の『顔』にこだわっていなかったのだけど(人並みに気にはしていたけど)、『顔は人様に見せるためのもの』という視点から考えたら、やっぱり残される人々に不快感を与えるような死に顔で逝くのはいやだな。

年を重ねるごとにまろやかなよい顔になってゆき、その集大成がよき死に顔であれればよいですよな。

ところでわたしには理想の死に方というのがあって、出来れば「まだ死にたくないよ」と、生を惜しみながら逝きたいなと、そんな風に考えていた。それは、生きることに執着しているというよりは『執着したくなるくらいに楽しい人生ならいいよな』という意味で。
それはどういうことかと言うと、わたしの場合『生きることは辛い』『人生長すぎる。早く終われ』というのが前提というか出発点であったので、それが捻れて、逆説的に先ほど書いたような死に方に対する理想が生まれていたわけです。
しかし、その前提がひっくり返りつつある今となっては、当然のことながら理想の死に方の修正も必要になるだろうな。

写真はいつかの空。
2012/10/06 (Sat)


レインボー
今朝は電車の窓から虹を見たよ。

2012/10/04 (Thu)


のっぺらぼう
のっぺらぼう
今更感がものすごいような気もしますが、先日『塩麹』なるものを購入した。肉や魚に塗すと旨みが増して柔らかくなるというアレです。(なんかよく知らないけど、去年くらいに話題になっていましたよね?)

使い方がよくわからないので、とりあえず納豆に小さじ一杯程度を混ぜて味噌ご飯に掛けて食べてみたら、普通に美味しかった。ちなみに味噌ご飯というのは、温かいご飯に味噌をただ混ぜただけのものです。好きなのです。
あと、毎朝作っているスムージーに混ぜてみたら、これも普通に美味しく仕上がりました。スイカに塩をかける感覚ですかね。

で。昨日、塩麹とオリーブオイルを混ぜて作ったドレッシングでプチトマトとアボカドを和えてみたらコレが美味しい!美味しくてついつい食べ過ぎてしまった。塩麹とオリーブオイルは相性が良いとネットで見かけて試してみたのだけど、確かに合う。

他に何か塩麹の活用方法は無いですかね。豆腐に合わせても美味しそう。
わたしは家であまり調理をしないのだけど(だいたい『素材』を食べてるわけです。家では)こんな風に食べると美味しいよ〜というのがあったら、どなたか是非教えてください。募集!

そんなこんなで、俄然麹熱が高まったので、今度麹で甘酒を作ってみようと思う。
麹で作った甘酒は確かに美味しいので興味はあったのだけど、作り方をチラ見しただけで「なんか面倒臭そう‥」と思ってそのままになっていたのです。しかしよ〜く見てみたら、それほどには大変では無さそうなことがわかったので、今週末にでも試してみる。うふふふ。


話は変わって。声というのは、大きさではなくてベクトルなんだなということをよく思います。
たとえば、人前で話す時にはどこに(誰に)向って話しているのかを意識しないと、どんなによいことを話していたとしても、大きな声を出したとしても、絶対に相手の心に響かない。と思う。(相手が『拾ってくれる』ことはあるかもしれない)
逆に、意識をしっかり声にのせて方向性を定めれば、小さな声でも結構相手に届くように感じる。受け入れるかどうかはまた別として。

少し前にある人のお話を聞きに出かけたのだけど、どんな経験を積んだとしても何故かそれらが1ミリも実になっていないように見える人っているんだな‥と思ってしまった。(無論わたしの見方がクリアだとも思わない)
その人はかなり特殊な経験、体験をされている方で、わたしは完全なる興味本位で赴いたのだけど、何一つ心に残っていない。それはもう不思議なくらいに。完全なる興味本位ということは、つまり興味深々ではあったはずなのに。

どこかで聞いたような話しかしていなかったような気もするのだけど、それが理由では無いはず。何故ならそれがたとえ「どこかで聞いたような話」であったとしても、相手の心に響かせることが出来る人というのは、いるもの。
内容としては、社会問題や、幸福のための心持ちなどを色々話していたはずなのだけど(何しろあんまり覚えていない‥)、なんというか『人のために』という感じはまるでしなかったな。少なくともわたしは感じることが出来なかった。

批判や非難をしたいわけではなくて、ただひたすら不思議だった。のっぺりした人だった。
まあ、彼にもシンパというかフォロアーというか、何かを感じて付いて行っている人も少なからずいるわけだから、わたしにはわからない何か魅力はあるのだろうとは思う。

誰ともほとんど目を合わさないで、独り言のように話していたからかもしれない。

2012/10/03 (Wed)


40年
40年
昨日の朝、鼻先をかすめたと思ったら、今朝にはさらに濃厚な芳香。秋の始まりの金木犀。空も高くなり、どんどん透明感が増してゆきますね。

去年の日記を見てみたら、今年と同じく10月1日にその秋初めての金木犀の香りを嗅いでいた。

以前に比べれば夏もかなり好きになってきたけれど、わたし、やっぱり秋が好きだ。

先日は友人達と多摩川河川敷にて秋刀魚を焼いた。13時過ぎから気がつけば22時過ぎまで延々お酒を飲んでいたのだけど、楽しかったのであっという間の一日だった。

途中、ちょっとしたハプニングもあったけど、天気は良いし、秋刀魚は美味しいし実に幸せであった。

暗くなってから焚き火もしたのだけど、薪を使い尽くした後に炭を投入して、その炭火をずーっと眺めてた。美しい。飽きない。

わたし、一生こんなことをしていたいな。

そういえば、どこかで読んだけど、今わたしが通っているブリージングストレッチの古久澤先生は、ヨガや気孔に熱中していた若い頃に、周囲から「お前はいつまでそんなことをやっているんだ。もっと現実を見てまともになれ」と言われても「一生やってるに決まっているじゃないか!」と答えていたそうです。(正確な引用では無いけどだいたい間違っていないと思います)。
若い頃の先生がやめずに続けていてくれたおかげで、時を越えてわたしも今すごく楽しい日々を過ごしているわけですから、本当に有り難い限りです。

最近思うんだけど、自分より後の世代に「人生って楽しいものなんだよ」と身を持って伝えることが大人の役目なのではなかろうか。それはもちろん、自分のためだけの快楽に耽るとかじゃなくて。(だって。自分のためだけの快楽に耽るような人が幸せそうに見えることって無いもの)

この先どんなに長く生きられたとしてもせいぜいあと4、50年しかわたしには残されていないから、あんまり我慢して過ごしたくないな。もったいない。

我慢というのはとても危険で、何もしていなくとも、ただ何かを我慢をしているだけで何かをしているような気になったりしちゃうことが多々ある。
一時期よく聞かれた『自分探し』とかにも、なんというか同じ臭いがあるね。ありもしない幻想の完成形としての『自分』を探し続けることで、安心するというようなアレ。

なんか色々ゴチャゴチャ散らかったことを書いているけど、まあ、今後の生き方について、ちょっと決めたこと、あります。
2012/10/02 (Tue)


10月
台風一過のなんとも清々しい朝に、今年初めての金木犀の香りを嗅いだ気がした。

10月。
2012/10/01 (Mon)



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