【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


魔法使い
人生ってのは、やはり自分が作っているものなのだなというようなことを最近は実感(体感)している。もっと言うならば、自分が発した言葉通りにしかならないものなのだなと。

『言霊』というのは、やはりあるのだろうなぁ。

繰り返すけど、人生は自分が発した言葉通りにしかならない。そして、普通の人は、自分が通常どのような言葉を発しているのかなど、意識出来ていない。無意識に支配され過ぎているから。普通は。
普通の人はそれでいいのかもしれないけど、わたしは多分普通ではないのだから、もっともっと己の口から出る言葉に注意を払わなくてはならない。

言葉というのは、それ自体に力があるというよりは、たぶん、ふわふわとそのあたりで浮遊している、方向性の定まらない、『そこにただあるだけ』のエネルギーに、方向を与え、形を与え、定着させるという性質を持っている『アイテム』なのだろうな。取り扱い注意。

思いつきで適当なことしか書いていませんが。
2012/10/29 (Mon)



風邪を引いた
先日、会社からの帰宅時に雨に降られてしまったのだが、そのせいか風邪をひいてしまった。木曜日に非常に頭が痛くなり、身体の節々もギシギシしてきたので「ああ参ったな」とか思っていた。土曜日には河原で秋刀魚焼いて遊ぶことになっていたし、なんとしてでも回復させたいので、その日は半身浴で身体を温めてとにかく早く寝て(9時過ぎには寝てた)金曜日は仕事を休んだ。のど痛かったし、熱あったし。
で、そのまま寝ててもよかったのだけど、せっかく(?)仕事休んだんだしと思い、浅草橋まで体操しに行っちゃいました。午前中に古久澤院長のクラスがあったので。クラスのコマ割的に、院長のクラスはあんまり出られないので、貴重なタイミングだわと思い。(我ながらよくやるわーとは、思うけど面白いのだもの‥)。
浅草橋までガタゴトと赴き、1時間ばかり体操をして、そのままトンボ返りで帰宅。食を断ち、酵素ドリンクを多めに飲み、半身浴で身体を温め、ぐうぐう眠ったら、見事に回復。素晴らしい。
だいたいあの様子だと、今までなら1週間くらいグズグズしているパターンであったが。少しは風邪の引き方も上手になったのかしら。

で、土曜日にはめでたく河原にて昼から夜まで遊びました。13夜の月見も兼ねて。でも酒に夢中であんまり月見られなかった。へ。
さすがにそろそろ寒くなってきたので、河原でBBQなどをやっている集団も少なくなってきていましたが、もっと寒くなったら外鍋とかやるのもオツなんですよね。カセットコンロと土鍋を持ち出して。
そういえば、知らない若者に「肉とか余っていませんか」とか言われたような気がするけど気のせいだったかな。

本日は、友達とお好み焼きを食べに下丸子まで。駅で待ち合わせて雨の中をお店まで歩いていたら、聞き覚えのあるだみ声が前方から聞こえる。顔を上げたら、なんと会社のドライバーのおっちゃんが!「え!あれ!?こんなところで何やってんのー??」と聞いたら、下丸子に住んでるのだって。びっくりした。
もんじゃ焼きとそば飯を食べつつ(とても美味しい)、場所を変えて甘いものなどほおばりつつ、おしゃべりに花を咲かせたひとときであったが(主に怪しい話)、やっぱり人と話すのは面白い。前に書いた、最中餡子さんのおっしゃっていたことじゃないけど、あんまり直視しないようにしている、自分の恥ずかしい癖とか性質とかが浮き彫りになって非常にくすぐったい。
くすぐったいんだけど、「わたしって恥ずかしいヤツー(赤面)」ってのを、いくつになっても持ち続けることが、いつまでも新鮮に生きるコツの一つなんじゃないかなーと、ちょっと思った。

ところで昨日、今日とちょっと(かなり)飲み食いしすぎたせいか、身体が硬くなっているような気がする。明日から節制しなくては。
2012/10/28 (Sun)


【再掲示】お知らせ
薪10キロ注文したで。
お馴染みさんも一見さんも気まずい人も、みんな適当に遊びに来てね!
参加条件を強いて上げるなら自ら積極的に楽しむ気があること、くらいかな。
http://nejire.org/aokn/
2012/10/24 (Wed)


ゆさゆさ
先日、体操中に笑いたくなることが良くあるけれど、笑いというのは要するに『振動』だから、それで身体を緩ませようとしているのだと思うと書いたけど、その後に貧乏ゆすりについて考えていた。

貧乏ゆすりというのは、あまり良い印象を持たれないものではあるけれど、アレも結局心身の緊張を弛めようとする無意識の行動であるわけで、それ自体は悪いことでは無いはず。問題があるとするならば、それが無意識の行動であるという点なのだろうな。自分をコントロール出来ていない。
人の行動は、そのほとんどが無意識に支配されているとは言うけれど、あんまりにも無意識に自分が飲み込まれてしまうというのは、やはり問題だろうと思う。

普段から積極的に無意識と交流を図っていれば、それに飲み込まれてしまうということは少なくなっていくのだと思う。具体的には、日常的に瞑想をするとか、そういったことですかね。

ところで、身体をゆすることで緊張が弛むというのは、きっと誰もが体感していることだと思うけれど、実際に、ある特定の筋肉にあえて一定の負荷をかけることで、身体の内部からの自発的な振動を誘発して身体(主に筋肉)に滞っているストレスやトラウマを解放させるエクササイズもあって、わたしも一時期よくやっていましたが、アレは非常に効果が高いメソッドだった。(ちなみにブリージングではないです。トラウマリリースエクササイズというメソッド)
ただ、かなりオートマチックで、効果もハイスピード過ぎるので、ちょっと自分には合わないかもと思い、いつしかやらなくなってしまったのだけども。
アメリカのお医者様が考案したメソッドなのだけど、結果だけを先取りしようとするところが西洋的だなという印象。
しかし、そもそも考案した方の戦場体験を元にして作られたものだから、当然といえば当然なのですが。

『道を歩く過程で気付いていくこと』を重視するのであれば、このメソッドは向かないとは思うけど、緊急時にカンフル剤的に必要になるケースもあるかもしれないから、これはこれでありですよね。
(実際に去年の震災の被災地では、ボランティアでワークショップが行われている
そうです)

ゆさゆさ。振動大事。
2012/10/24 (Wed)


実体
最近、母とのおしゃべりを楽しく感じるようになってきたので、割とよく会っている。親と関わるのを楽しめるようになっただけ、わたしも大人になったものだとしみじみ。年齢的にはもう充分に大人というか既に初老と言っても過言では無いので、今頃何を言っているのだと思わなくもないけど。

以前、友達にヨガを少し教えてもらっていた時にも思ったけれど、身体のことに意識を向けると、世界というものがわかってくるように感じる。(世界情勢とかではない)わかってくるというか、実体を持つようになるというか。


以前から度々書いているけど、万物は刻々と変化していくものであるのに、人間だけが『変わらないでいること』に力を使っている。(人間には『完成』という概念があるからだろうか)。
それはとても不自然な力の使い方であり、それ故に様々な不具合が生じているのだということを前提にして考えれば、不具合を無くしたいと思ったなら、我々がやるべきことは、まず『力を抜く』であろうな。力を加えるのではなく、まず、抜く。
不自然な力を入れさえしなければ、あるべきモノがあるべき場所に勝手にどんどん動いてゆくはずなのだ(空を見ていれば誰でもわかるよ)。調和を『目指して』動きつづけている『状態』こそが『世界』なのだから。(そして完璧に調和してしまった時が、世界の終わり。と思う)、

で、身体のことに意識をぐっと向けていると、その世界のありようというものに、実体が伴ってくるのだよね。(『世界のありよう』って、わたしが勝手にそう思っているだけだけですが)

身体は世界の一部であるのだから、そのありようを見れば世界がわかるし、逆もまた然りではないだろうか。身体に限らず全てにおいてそうなのではなかろうか。

力を抜けばあるべきモノがあるべき場所に勝手にどんどん動いてゆく。
2012/10/23 (Tue)


体を操り心を包む
体を操り心を包む
ブリージングストレッチの参考書的な存在(?)である『チンパンのブログ』は、毎週日曜日に更新されているのだけど、最新の記事で『うつ病の予防にもなる』と紹介されていた、四つん這いで前腕の前面(掌側)を膝で踏む体操。コレ、本当に良いのでオススメです。

http://ameblo.jp/senkotu/entry-11383879881.html

教室ではほとんど毎回この体操を行っているのだけど、胸に効くな〜と、最初に思った。嬉しいような切ないような、くすぐったいような感じがして、なんかケタケタと笑いたくなるのです。教室では別に「コレをやると笑いたくなりますよ」とか説明されるわけではないので、あくまでわたしの感覚でしかないのだけど、家で一人でやっている時には、たいていこの体操で笑っている。
ブログでは「ここは『心包系の経絡』で、心のストレスが溜まる場所」と説明されているけれど、わたしは経絡のことは勉強していないので、よく知らない。でも、前腕の掌側を伸ばすと気持ちがほぐれるというのは、実感(体感)として、確実にある。

四つん這いになって、片方の手の指を思いっきり開いて指先を手前向きで掌を床に押しつけ、もう片方の手で指の付け根を押さえてそのままお尻を後ろに引く体操というのも毎回やっているのだけど(説明しにくいな)、これも前腕の掌側がぐうと伸びて、やっぱり笑いたくなるし、やった後には気持ちがすごぉーく楽になっている。やはりその『心包系の経絡』とやらを刺激しているからだろうか。そういえばこの前、「これは心のコリをほぐす体操」だと言っていたような気がする。

これらに限らず、体操をしている時に笑いたくなることはよくあるのだけど(わたしは)、笑いというのは、要するに『振動』なのだから、それで身体を弛めようとしているのだなと、勝手に理解している。

だんだん、経絡とやらもちゃんと知りたくなってきたので、いっちょ勉強してみるかと思っている。わくわくしちゃうな。

ところで、なんだってそうなんだけど、ブリージングでは体操や食事の仕方を教えてはくれるけど、わたしの代わりにわたしのために、それらをやってくれるわけではない。もしも仮に「やってあげたい」と思ってくれたとしても、それは無理な相談。
こんなの、笑っちゃうくらいに当たり前なんだけど、自分で自分を動かしていくことの重要性をこの年齢になって初めて思い知っているような気がする。

そういえば『体操』って『体を操る』って書くけれど『操る』はたとえば『動かす』よりも、意志の力がより感じられますね。

2012/10/22 (Mon)


出来ない
出来ない
そういえば、少し前に書いた『胴体力』の講座、行ってきました。渋谷の神社内にある道場で行われていましたよ。
で、結論を先に書くと、一言「全く出来ない!」。

後日、古久澤院長に「飛龍会行ったんだって?よく行ったね!」と言われたので(飛龍会という団体名なのです)、「体験講習会と銘打っているからには、初心者ばかりが来るのだと思っていたら、ガチな人しかいませんでした」とお話したら「いや、あそこは敷居が高すぎて、行く人いないよ」ですって。わたしにはその敷居、高すぎて、逆に見えなかった。高すぎるハードルに気付かずに、そのままくぐっちゃったみたいな感じ?場違いも甚だしい。

『伸ばす・縮める』『反る・丸める』『捻る』という胴体の動きの基本しかやっていないのに、ここまで出来ないものかと。「あなたは『捻り』じゃなくて『回転』になっていますよ」とか「首のところですべての動きをブロックしている」とか。うへぇー、すすすみません!

なかなかいたたまれない時間を過ごし、尻尾をくるっと丸めてキャンキャン逃げ帰って来たわけですが、しかし「自分は出来ないのだ」ということがわかっただけでも実に面白かったです。成長するつもりがあるのであれば、まずは現状把握は不可欠ですからな。
ここに断言しておきますが、わたしは心身に関して、年齢と共に衰えさせるような人生を送る気は1ミリも持ち合わせていないので、負け惜しみではなく本当によかった。前にも書いたけど、出来ないってことは、それだけ良くなる余地が沢山あるってことだから、その分この先が楽しみになるだけ。


最近思うのだけど、今ココにあるこの身体というのは、時間と空間の交差点のようなもので、わたし達には幸せである(幸せに『なる』とは言わんよ)権利ではなく、むしろ義務があるのではないだろうか。世界に対する責任というか。なんの根拠も裏付けも無いけれど、ただ、そう思う。

で。よく「人生よいことがあれば悪いこともあるけど、悪いことがあるからこそのよいことだよ」みたいなことを言う人ってのがいて、なんだかもっともらしいのでなんとなく最近まで自分もそんな風に考えていたけれど、今はそれもちょっと疑わしく思ってる。‥本当にそうなのかしら?(人生における、ある一時期には、そのような期間があってもいいとは思う)
たとえ話だけど、インキンタムシに水をひっかけたらそりゃあ気持ちいいけど、そもそもインキンタムシになんかならない方がよいに決まっている(徒然草)。しかし、わざわざ自分でインキンタムシを招くような人というのは少なからずいて、それは水をひっかけた時の刺激を欲しているだけで、その刺激を幸せだと思い込んでいるのだと思うけど、幸せってのはもっともっとなめらかなものであるはずだよ。

スピリチュアルが好きな人たちには意外と(?)そのようなタイプが多い気がする。せっかく素敵なことを学んでいるのに何故か幸せそうに見えない。いつも何かしらトラブルを抱えているような人。でも不思議と活き活きしている。
あれはトラブルを乗り越える刺激が好きなんだろうなと思われる。トラブルが無くなると困るから自らトラブルに首を突っ込むのかなと。ほとんどの場合、たぶん、無意識に。
あれはなんなんだろうか。漫画とかの影響も大きいのかも。
主人公が常に誰かと延々戦うことで物語が進行していくパターンてのは割と多い気がするので、誰か(何か)と戦わないと人生という物語が進行しないと思わされているのかもね。(さて一体誰に?)

2012/10/21 (Sun)


お知らせ
七輪で秋刀魚焼くよ。銀杏も焼くよ。
楽しいよ!
http://nejire.org/aokn/
2012/10/18 (Thu)


表の顔が沢山
表の顔が沢山
先日、江ノ島の花火大会に誘われて、鵠沼海岸駅に降り立った。懐かしい。10年ほど前に、よく通っていた場所なのです。
海岸で海とちゃんと向き合うのはとても久しぶりな気がするけど、やっぱり気持ちが広がるみたい。海に対しては、ちょっと苦手意識があるのだけど、たまには必要だな。スペシャル感があるよ。


ここのところ、ブリージングにどっぷりでビオダンサに行けていないのだけど(クラスの曜日が思いっきりかぶってる‥)、そろそろ踊りたい。‥‥と、思い、スケジュールをよくよく見たら、今週来週はビオダンサのクラスがお休みであった。無念。

ところでブリージングでも、ビオダンサでも、『関係性』を非常に重視している。(あと、皮膚接触も。特にビオでは抱擁や愛撫が不可欠)

ビオダンサの場合は、独りで踊って自分自身と繋がり、二人で踊って相手と繋がり、みんなで踊ってその場その時のみんなと繋がるわけだけど、それもこれも、音楽や空間という『環境』との繋がりありきの話。

独りで踊る時だって、独りだからと言って自分勝手に踊ればそれで良いというわけでもなくて、その場その時の自分自身を感じながら踊るし、二人で踊る時はお互いに相手を感じながら、その場その時の『二人が生み出す関係性』をこそ踊るわけで、相手によって自分の踊りが変わるのは当たり前だったりする。大人数で踊る場合もそう。
相手がいる場合、変化しない方に無理があるわけだけど、それは『相手に自分をただ合わせる』とか『自分を偽る』とかいうこととは全く違う。『知らなかった自分が出てくる』ということだと思う。だからこそ面白い。

そういえば、わたしの中の名言集の上位に、なつさんの旦那様が結婚前におっしゃったという「表の顔は沢山あるかもしれないけど、裏の顔というのは別にない」(ちょっとニュアンス違うかも)というのがあるのだけど、なんかそんな感じ。

ツイッターをやっていた時にわたしがフォローしていた最中餡子さんという方が(今でも好きでよくツイートを読みに行っている)、いつだったか『自分一人で何かを考えている時というのはいくらでも格好付けることが出来るけど、人と話していると隠れていた自分の恥ずかしい部分が顕になる。だから人と話すのは面白い』というような意味ことを書かれていたのだけど(全然正確な引用ではない)それを読んで思わずニヤリとしたよ。餡子さん大好き。

ところでブリージングストレッチを始めてから2ヶ月。身体が幸せを感じちゃって仕方がないのだが、当然わたしなどはまだまだブリージングの入り口付近でキャッキャキャッキャしているだけなので、知らないこと、出来ないことが死ぬほどあると思われるわけです。知らないけど。
と言うことは。今でさえこんなにハッピーなのに、まだまだハッピーになる余地があると言うことですよね。出来ないことがあればあるほど、その余地は広いわけですから、わたしなどは『その余地しかない』と言っても過言ではないわけですよ。

幸せすぎて死んじゃうかもー。
2012/10/16 (Tue)


秋の花火
秋の花火
2012/10/13 (Sat)



total : 106306
today : 28 yesterday : 58