【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


光
ああ美しい光の日々。夜空も澄んでキレイ。

冬が始まりつつある。


この身体と共にこの世界に在るということが、本当に嬉しくて仕方がない。
冷たい空気に首をすくめても、それだって幸せなことだね。身体が無ければ冷たさだってきっと感じられない。

今朝から、どうすればもっと全てに優しい気持ちでいられるか、そんなことを考えている。やはりどこまでを自分とみなすか、そのあたりがポイントだろうか。

身体感覚は大事だけど、だからといって肉の表面が自分とそれ以外の境界では無いはず。
2012/11/20 (Tue)



11月の雨
11月の雨
土曜日。いつものように起き、掃除などをしてから浅草橋へガタゴトと電車で向かう。もちろん、ブリージングのクラスに参加するためである。

お教室までついたら、なんだかいつもと雰囲気が違う。熱いというか濃いというか圧があるというか。不思議に思いつつも、まあそんな日もあるのだろうと入っていったら、いつもご指導してくださるK先生が「あれ!?」と驚いた顔。話を聞いたら、その日は通常のクラスではなくて、1年講座の日であった。がーん。スケジュール間違えた。は恥ずかしい‥。
自分で言うのも何だけど、わたしはこの手の間違いは滅多にしない。のに。ブリージングに関してはなんだかチョイチョイやらかしている気がする。冷静さを欠いているということだろうか。スゴスゴと引き返すわたしである。それにしても着替える前にK先生が見つけてくれて良かった‥。

ちなみに1年講座というのは、月一のペースで1年間かけてブリージングをみっちり学ぶ講座で、来年はわたしも参加することに。なので、あの雰囲気をチラ見出来たのは良かったかもしれぬ。

そのまま帰宅するのも何なので、雨の中、明治神宮と代々木公園をウロウロした。スズメの雨宿りがとても可愛かった。

チュンチュン。
2012/11/18 (Sun)


ひかりはたもち その電燈は失はれ
ひかりはたもち その電燈は失はれ
そうこうしていたら、友人が『農業芸術概論綱要』その他の写しを送ってくれた。これは心底嬉しい。

宮沢賢治という人の生涯や、『農業芸術概論綱要』がどういった趣旨で書かれたものなのか、また友人による作品の解説(?)などが手書きで書き込まれていて、ジーンとする。わたしは幸せ者だな。

友人が教えてくれたので、宮沢賢治の生涯をざっと知ることが出来たのだけど、彼が自らを『修羅』と称したのは、やはり様々な葛藤や苦悩によるものなのだろうか。それが故に、あの透明な世界にたどり着いたのだろうか。

生きることと労働が直接結ばれていたならば、それを舞踊の範囲に高めることも出来ようが、宮沢賢治の時代においてさえ、それらが切り離されていたのだとしたら、我々は一体どうすればよいのだろうか。

なんてことを自分への課題としておこう。

2012/11/17 (Sat)


巨きな水素のりんご
宮沢賢治さんが、向こうからすぅと近づいて来られたので、新潮文庫の詩集を一冊購入してチマチマ読んでいる。(あるいは眺めている)

『青森挽歌』クラクラする。あまりにアレなので、ネット上に書き写すのもはばかられ。

『生徒諸君に寄せる』を読む。わかりやすい。よくは知らないけど、誰か生徒諸君に向けて書いたからなのだろうか。
美しい力がわいてきて、なんだかどこまでも行けるような気がしてくる。行かなくてはならないような気がしてくる。


“サキノハカ〔以下余白〕
 〔約九百字分空白〕来る
 それは一つの送られた光線であり
 決せられた南の風である、
 諸君はこの時代に強ひられ率ゐられれ
 奴隷のやうに忍従することを欲するか

 むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
 宙宇は絶えずわれらに依って変化する
 潮汐や風、
 あらゆる自然の力を用ゐ尽くすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのにつとめねばならぬ

 新らしい時代のコペルニクスよ
 余りに重苦しい重力の法則から
 この銀河系統を解き放て

 新しい時代のダーウヰンよ
 さらに東洋風静観のキャレンヂャーに載って
 銀河系宇宙の外にも至って
 更にも透明に深く正しい地史と
 増訂された生物学をわれらに示せ

 衝動のやうにさへ行はれる
 全ての農業労働を
 冷たく透明な解析によって
 その藍いろの影といっしょに
 舞踊の範囲に高めよ”



“新たな詩人よ
 嵐から雲から光から
 新たな透明なエネルギーを得て
 人と地球にとるべき形を暗示せよ

 新たな時代のマルクスよ
 これらの盲目な衝動から動く世界を
 素晴らしく美しい構成に変へよ

 諸君はこの颯爽たる
 諸君の未来圏から吹いて来る
 透明な清潔な風を感じないのか”

‥‥盲目の衝動から動く世界を素晴らしく美しい構成に変えようとするならば、まずは自分がどれほどまでに盲目かを知らねばならぬ。

そしてわたしたちはわたしたちの生を舞踊の範囲まで高めねば。つまり自ら生きるということ。無意識に支配されすぎないでいるということ。

我が眼は未だ閉じたままであるが。
2012/11/16 (Fri)


カウボーイ疾走
カウボーイ疾走
昨日は、通っているブリージングのお教室の院長のお誕生日でありました。お誕生日記念(?)で、気功の特別クラスのようなものがあって、もちろんいそいそと参加したのだけど、わたしは感動をしてしまった。

「気功ってそのような世界なの?であるならば、わたしはそこを歩きたい」と、強く思った。

気功というものに対しては、面白そうだと漠然と思ってはいたけれど、なんとなく『手を触れないで相手を吹っ飛ばす』とか、そのようなイメージしかなくて、それはそれで別に怪しいとかインチキとかの判断は全くしていなかったけれど、自ら積極的に学びたいかと言われれば別にそうでもないし(吹っ飛ばしたい相手などおらぬ)、ブリージングでは気功をやってる生徒さんもいるということも知ってはいたけれど、自分が学びたいのかとなると、さてどうなのだろうという感じであった。

しかし、昨日も含めて最近少し気功というものに触れてみて、これは認識を改めねばならぬと思ったのです。
気功のマジカルなテクニック(?)も、もちろんたいそう面白いのだけど、なによりも、『世界』というものを知りたいと欲するならば、この道は歩いた方がいいだろうなと。
はっきり言って、わたしには趣味が無いしなりたいモノ、やりたいコトというのもまるで無い。上昇志向も無く、能力開発にもさほど興味がない。ただただ、わたしは知りたいのだ。世界というものを。

先日、宮沢賢治の文章にクラクラしたけど、気功というのは、まさにあの世界なのだそうだ。「気功を学ぶ上で、宮沢賢治は絶対に避けて通れない」と院長がおっしゃった時はゾクゾクした。テンション高く興奮するというわけではなくて、シュッとした心持ちで静かに感動している。

あんなキレイな世界が見られるなんて、と。
これから先が楽しみで仕方がない。


で。写真は、クラス後の食事の際の院長。変なサングラスかけて格好付けている愛すべき46歳。本当にみんなに愛されてる。
ネット上での公開の許可をいただいた‥と言うか、むしろ積極的に公開して欲しそうに見えたのでアップします。
いや本当に素敵な先生でございますよ。

まことにおめでとうございます、院長!

2012/11/13 (Tue)


『世界』と『個人』の関係とは。

やはりお互いがお互いを相互に援助するセキュリティシステムであらねばならないのですよ。

それを我々は体感として知らねばならぬ。
テクニックはその後。

というか、テクニックというのは、(知っておいて損はしないけれど)そもそもそこにある現象の応用、合理化に過ぎぬのだから、本質を理解すれば後から勝手についてくるはず。

2012/11/12 (Mon)


我らは世界のまことの幸福をたずねよう
我らは世界のまことの幸福をたずねよう
なつさんの日記で、宮沢賢治『農業芸術概論綱要』の文章を読んだ。無学なわたしは、それがどのような趣旨の本であるのか知らないけれど。

「なべての悩みをたきぎと燃やし
なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」


「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて
 無方の空にちらばらう
しかもわれはら各々感じ 各別各異に生きている
ここは銀河の空間の太陽日本
陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て」


「世界が全体幸福にならないうちは
 個人の幸福はありえない
 新たな時代は世界が一つの意識になり
 生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識して これに応じていくことである
我らは世界のまことの幸福をたずねよう
求道すでに道である」

クラクラする。
途方もない意識の広がりと凝縮。

世界と自分との関係を理解せずしてなんの幸福か。

この世に生まれた以上、我々には幸福である義務が有ると思う。自分自身が幸福でありたいのというのは、まず当然のこととしてあるけれど、自分が幸福であることで世界への責任を果たせるのではないかとも思ってる。
幸福の連鎖、流れを空間的にも時間的にも自分のところで滞らせるわけにはいかないではないか。

宮沢賢治とは逆のベクトルの発想だが、個人の幸福が世界全体の幸福に影響しているはずだし、また本来幸福とはそのようにあるべきだ。

幸福は綱引きじゃないんだよ。

わたしは一生をかけてでも、それを証明せねばなるまいよ。
2012/11/10 (Sat)


木曜の夜
木曜の夜
気持ちの良い日々です。
この時期は、どんどん空気が澄んでゆきますよね。空の青さやクリアな光に毎朝感動してる。キレイ。

写真は先日散歩中に会った猫。歩くにはよい季節です。

さて。木曜喫茶が終わってしまった。
木曜喫茶というのは、新宿ゴールデン街にある無銘喫茶という日替店長のお店で(まあ飲み屋です)、毎週木曜日に友達が店長としてカウンターに立っていた『場』。わたしはなんだかんだ4年近く通っていたのかな。『通っていた』と言うほどの頻度では無いか。まあいいや。

そもそもわたしが木曜喫茶に行くようになったのは、店長である友達と小沢健二さんの『うさぎ!』がらみで知り合い、なんて面白い子なんだろうと思ったのがきっかけだった。毎週木曜日にこういう店をやってるのだと聞いて、持ち前の図々しさをもっていそいそと赴いたのだ。

わたしはその友達のことが好きだし、彼が立っていたあの『場』が好きだった。
その『場』にいるのが好きな人だろうが苦手なタイプだろうが、仲良しだろうが見知らぬ人だろうが、盛り上がろうが盛り下がろうが、なにしろ好きだったな。あそこにいる人は、なんだかみんなすごく優しかった。

わたしはそんなに頻繁に顔を出していたわけではないけど、行かれない時にも木曜の夜には毎週絶対に「今日は木曜日かぁ」とか思ってた。自分の人生の中に、あの『場』があるのだということが、何か、安心に繋がってたように思う。
そういえば、今わたしは『行かれない』と書いたけれども、そこにそれが有って、そこに『行く』ことの方が自分には前提だったのだと思う。だからこそ『行かれない』という言い回しが出てきたのだろうな。わかんないけど。今そう思った。

何故木曜喫茶が終了してしまったのか、詳しい事情は知らない。すごく驚いたけど、なんとなくいつまでも続くようなものではないのかも知れないなという、予感みたいなものも、どこかにはあったな‥ということに、遡って気付いた。

しかし寂しい。そして困った。

寂しいというのは気分だからいつかは去っていく。
しかし、困ったというのは‥。なんとも困ります。

友達のことだから、きっとまた別の形で何かをしてくれるはずだとは思っている。そこにわたしも参加出来たら嬉しいなと、そんなことを希望している。

ちなみにその友達は個人サイトを持っていて、そこには超名文がいっぱい書いてある。わたしは彼のファンなのだ。
以下に紹介するので、ここを読んでくださっている皆様も、ファンになるといいと思う。

『少年Aの散歩/EntertainmentZone』
http://homepage2.nifty.com/ozakit/

2012/11/09 (Fri)


天使の分け前
天使の分け前
あの人はわたしと関わっていた瞬間においては、間違いなくわたしの天使であった。それ以外のあの人のことは知らないしわからない。

知らないしわからないのであれば、それ以上何をどう考えたって無駄。ポジティブであろうとネガティブであろうと妄想は妄想に過ぎぬ。

何度でも言うが、納得など求めるなよ。
納得などせずとも、日々は続くし影響も続いてく。

それでよいのではなかろうか。

そういや「さよならの代わりにありがとう」とかいう意味合いの歌あったな。今度カラオケで歌おう。
2012/11/06 (Tue)


ヒューヒュー
寂しくて胸がヒューヒューするな。
2012/11/02 (Fri)



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