土曜日。梅を見に行った。
桜はなんだかスペシャル感があるけど、梅は梅で風情があって素敵。香りも良い。
春の花というのは皆清らかな香りがする。
花を観賞するというのは、なかなか難しいことのようで、どんなにキレイであっても、それをずっと見続けるのは、そうそう出来るものではない。たいていの人はだから写真をパチパチと撮ってひとしきり眺めたらその場を立ち去るし、そうでなければその場を背景として機能させるようなことはあるかもしれないけれど、それは花自体を楽しむというのは、少し違うような氣がする。
さて。思うに、花見で一番重要なのは、視覚ではなくて皮膚感覚なのではないだろうか。当たり前のことを書いているような氣もするが。
今までは『皮膚感覚』という語彙がわたしの中には無かったので、適当に「花の下に立つと頭のチャンネルが変わる」とか思っていたのだけど、これを皮膚感覚として認識すると色々とすっきりする。
(皮膚感覚というのは、わたしが氣功やらのお稽古をしているブリージングストレッチで非常に重要視されている感覚です)
よく、美しい景色を見ると鳥肌が立ったりするけれど、美しい景色だから鳥肌が立つのではなくて、そもそも鳥肌が立つような『何か』がある結果として美しい風景がそこ顕れるのではないだろうか。(その『何か』を我々は『氣』と呼んでいるのではないだろうか)。
結果として顕れた景色を視覚だけで見ているのならばすぐに飽きてしまうかもしれないことも、そこにある『何か』を肌で感じていれば、何か特別なことをしなくても、いくらでも『ソレ』を楽しめる。たぶん。
昔の人はおそらく現代の我々よりもそういった皮膚感覚が繊細で敏感だったから、わざわざドンチャン騒ぎなどしなくとも静かに花見を楽しめたのかもしれない。良いお酒と良い肴と静かに過ぎゆく時間だけで何時間も楽しめるなんて、憧れないですか?憧れる。
今、そんなこと出来る人なんてほとんどいないのでは。
まあ、テキトーな事しか書いていないし、あと、もちろん、結果としての『目に見える美しさ』を否定したいわけでもないです。
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日曜日。
浅草にある、美味しいお蕎麦屋さんに友人と連れ立って行った。駒形橋の袂にあるこのお蕎麦屋さんは、実がわたしの友人のご両親がやっているお店なのだけど、本当に美味しい。ブリージングで足繁く浅草橋に通っているので、ここのお蕎麦も今までより気楽に食べに行けるようになった。(お教室から歩いて30分程度かかるが)
しかし、「今日は暑いね〜夏日だって!」なんて話しながらお店に入ってあれやこれやを食べてから店を出たら、信じられないくらいに気温が下がっていて、二人で震え上がった。