穴 |
○?
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そろそろ奥井亜紀さんという方を、わたしも聴いてみるべきなのであろうか‥。
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2013/09/05 (Thu)
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〇さ
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名文しか書かないことで有名な友達がいます。(HP→ http://homepage2.nifty.com/ozakit/ )
彼が某所にアップした話がよかったので、流れていかないうちにここに残しておくことにします。(本人の許可は得ていません。ごめんなさい。) ---------------------------------------------------- 「麻薬みたいに酔わせてくれる痛みをとき」と歌う小沢健二さんの『ある光』は痛みからの訣別ソングかもしれない。例えば以下の曲とは似て非なるもの。おそらくは正反対。 ・そうして知った痛みを未だに僕は覚えている ・癒えることない痛みならいっそ引き連れて ・痛みにだけ僕は素直になってる 痛みは気持ちいい。麻薬のように酔わせてくれる。リスカなどの自傷行為や、首しめによる快楽とかはその極めて具体的な発現。それを「とき」と歌うのが『ある光』で、天体観測やミスチルのトゥモローネバーノウズなどに代表されるジェイポップの「痛みと共に歩く」という鉄板モチーフとは一線を画する。 日本人は本当に悲しみや傷や痛みが好きだ。小沢健二さんの曲の中でも、そういった言葉が出てくる曲に人気が集まっている気がする。特に「悲しみ」は『LIFE』に頻出。だからあのアルバムはジェイポップの名盤として名高いのだろう。しかし『ある光』で共に行こうとするのは痛みとではなく「光」と。 「傷」という言葉が登場する『流れ星ビバップ』でも、「時は流れ傷は消えてゆく それがイライラともどかしく」と歌われる。ここでも「傷」は、「共に行く」ものではなくて「消えてゆく」もの。おそらくは「優しさの中へ消えてゆく」。ここが小沢健二さんと、他のポップソングとの違うところだと思う。 日本人が好きなのは、つまりミリオンセラー並のヒットソングに見られるのは、「傷や痛みと共に歩く」というモチーフ。傷や痛みを、そのままにして保存しておく、という手の抜き方をみんなは好む。小沢健二さんの曲は違って、傷や痛みは、優しさや美しさや光や祈りの中へ、とけたり消えていったりする。 僕はそちらのほうに強く、すばらしさ(○さ)を感じる。同じように感じている人はぜひ仲良くしてください。いろいろお話ししましょう。 ---------------------------------------------------- 紹介したい名文は沢山あるのだけど、キリがないのでピンときた方は上記に張ったリンク先を覗いてみてくださいね。 |
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2013/08/30 (Fri)
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銀色の裏地
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昨夜は月が大変に綺麗だった。
まだ暮れ切らない紺色の空の低い位置に浮かぶ月。薄い雲に月光が反射しているのが見えました。 今夜が満月なのだそうですが、わたしの住む地では、あいにく空が雲に覆われていて、とりあえず今は見えません。 自分に見えていようと見えていまいと、月がそこで輝いていることに変りはありませんので、雲の上はさぞかし美しいだろうなと想像してみたりします。 人との付き合いにおいて、『共感する』『わかりあう』『理解する』ということは非常に大切な要素ではありますが、その上で『共感出来ないこと、わからないこと、理解出来ないことを尊重しあう』という姿勢もまた大事だと想います。 この二つは(仮に『共感力』と『尊重力』とでも言いましょうか)同一線上のプラスマイナスの関係ではないので、どちらかがどちらかの足を引っ張るなんてことはもちろんありえないし、どちらが上等というような話でもないです。どちらかに偏りたくはないなとは想います。 ところで、夏が嫌いで毎年「夏なんて呪われてしまえ」なんて想っていたわたしですが、先日25年ぶりくらいに真夏の海に行ってきました(写真)。リア充っぽいですね。 花火にしろ海にしろ、その季節にしか出来ない遊びをするというのは、やはり大切なんだなと、今更ながら想ったりしています。 それはそれとして、腕や顔がずいぶん黒くなってしまった。どうしたものか。 |
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2013/08/21 (Wed)
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ジィジィ
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15日の夜には、久しぶりに夜間徘徊をしていた。
大島弓子の『ジィジィ』という作品が好きだ。簡単にいうと「あと一週間で世界が終わる‥かも?」という設定の話。季節は、夏。 終末感が盛り上がって、あちこちでギジ最後の晩餐。感情のスクランブル。大告白大会。 「あなたと会えてよかったわ。ゆるせないとこあったらゆるしてね」 これはとてもいい話。 いつもいつでも、あと一週間で世界が終わるかもしれないと想いながら生きられればいいのかもしれない。そうすれば少しは人に優しく、素直になれるような氣がする。 あなたと会えてよかったわ。 ゆるせないとこあったらゆるしてね。 |
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2013/08/17 (Sat)
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万物がしあわせでありますように
万物が平和でありますように 万物が愛でありますように 万物が調和でありますように 宇宙の全てに祝福があたえられますように 皆様どうぞよき一日を! |
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2013/08/15 (Thu)
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無題
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詳細は書かないけれど、色んな意味で救いようのない状況に苦しんでいる方が、わたしの友人に宛てた文(ふみ)を拝見させていただいた。
事情によりほんの数行の定型文しか書くことが出来ないその文からは、様々な想いが溢れ出ていて、息をのむほどに美しく胸に迫ってきた。 そっけないと言っても良いくらい事務的な文面であるはずなのに、書かれた文字の一つ一つから、行間から、その方の想いが溢れているようで鳥肌がたった。 文字というのは、形と意味と音で出来ていて、その全てがそれぞれに特有の力を持ちながら成り立っているのだろうが、人の想いはそれらを超越することが出来る。『書く』という行為そのものに込められた、祈りのようなもの。 特にその方が宛名として書かれた、友人の名前が美しくて、友人も「この世界に自分の名前をこれほどまでに美しく書いてくださる方がいるなんて‥」と言っていた。 【連想】 文字というのは、そこにひかれた『線』だけを差しているわけではなく、当然のことながらまわりの余白をも含んで構成されている。したがって、一つの文字には全世界が含まれているといっても過言ではない。 「行間を読む」なんてよく耳にするけど、行間というのなら世界の全てが行間であると言うしかなく、行間を見る縁取りとして文字は存在しているのかもしれない。 ***** 人にはそれぞれ歴史というものがある。 今自分の目の前にいる人がどのように見えたとしても、それはその人がこれまで積み重ねてきた、そしてこれから積み重ねてゆく歴史のほんの一部にしか過ぎないという事実をわたし達はお互いに知っていなくてはならない。 相手が誰であれ、自分が知っているその人の時間より、知らない時間の方が多いだろう。 自らが直接関わることの出来ないその人の歴史や時間に対しては、ただただその事実に想いを寄せて尊重すること。自分の身勝手な安心のために無断で踏み込んでいかないこと。 そして安易な判断をしないこと。 |
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2013/08/14 (Wed)
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川と花火
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最近は、朝一番の水分補給に西瓜をよく食べている。シャクシャクと。
昔は果物で喉を潤すという発想が全く無かったので、昔話の『わらしべ長者』で、喉の渇いた旅人に蜜柑だか何だかをあげたら、何かもっとよいものを貰ったという件が(うろ覚え)ピンと来なかった。「喉が渇いているなら水だろう」とか想ってた。 しかし、この年齢になってようやく分かった。果物で喉の渇きは癒える。果物の瑞々しさが身体に染み渡るのが喜ばしくて、朝っぱらからニヤニヤニヤニヤしながら食べている。 常に変化を続けている情報とエネルギーが、ほんの一時、西瓜としてそこに留まっている。 これは一体どういう不思議なんだろう。 誰の意思によるものなんだろうか。 なんてことをぼんやり想いながら。シャクシャク。 瓜。 ****** 先日、ブリージングの仲間と江戸川の花火大会に出掛けた。ビールやらおつまみやらを買い込んでワーワーと河原に陣取る。河原に出た時に一人で「川だ川だ」と繰り返していたら、笑われてしまった。(笑われたって嫌な言い方だな。「微笑まれた」だ) 川と花火という組み合わせは、胸が痛くなるくらいに美しいものだ。 江戸川の花火大会ではあったけれど、遠くに幕張の花火も見えて、振り返れば松戸の花火も見えて、なんとも贅沢で最高のひとときでした。 花火というと、儚さの代名詞のごとき扱いをされることが多いような氣がするけれど、実際にはそんなことは無い。 まっすぐに昇って、天高く光となり世界に散らばった想いは、時間差を経て振動としてこの身体に返ってくる。 映像だけではなく、その場に脚を運ぶというのは、だからやはり大事なのだ。映像では振動を感じることは出来ない。(あえてぼんやりとしたことを書いています) さて。花火の感動もさることながら、行きの電車から見た、スカイツリーの向こうに広がる薄明光線(天使の階段)の美しさにも感動。祝福感がすごい。 光が降ってくる。 |
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2013/08/05 (Mon)
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一粒の砂
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氣付いていないことは氣付いていないんだから氣付いていないことにすら氣付けない。
知らないことは知らないんだから知らないということすら知ることが出来ない。 だからせめてそのことに自覚的でありたい。過不足無く。 謙虚さ。それが大事。 わたしなどこの世界の中において一粒の砂のようなものに過ぎない。 (でも砂は星の欠片。星の一部) |
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2013/07/30 (Tue)
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熱
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何事に対しても(日常の些細なことでさえ)『怒り』が原動力になっている人というのは結構いると思うけれど、あれは根源的なエネルギー不足が一因になっているというケースもありそうだ。
例えば『弱い犬ほど良く吠える』的な「自分を大きく見せたい」「そうすることで身を守りたい」とかいうよりも遥か以前に、そもそも『怒らないと何も出来ない』というような。 怒りのエネルギーってのは、カンフル剤的に使う分には有効な場合もあると自分は考えているのだけど、それが慢性化するとエネルギーは枯渇する一方で、それをカバーするためにさらに怒るというループにハマるなんてことは充分に考えられる。 色々なケースの一つにこういったこともありそうだというだけの話だけど。 *** 熱について考えている。 最近、とあるシンガーソングメーカー氏に熱を上げているのだけど、熱というのは、上がればいつかは冷めますよね。調和をとろうと『し続けて』常に動いているのが世界というものですから(“変らないために変り続ける”ってやつね)、上がったら上がりっぱなしということはありえない。 『熱を上げる』というのは、その対象と自分との境界を熱で溶かして曖昧にしようとしている行為ですよね。温度差を無くしたいというか。いつしか熱を上げる必要が無くなる時がくるから、本当はそれからが本番なわけです。 何かに熱を上げている時というのは、どこかでそれを意識していた方がいいでしょう。そうしないと、『熱が冷めたらそれで終わり』なんてことに簡単に、なる。 「いつか冷めるなら最初から熱なんて上げないわ」なんてのは却下。問題外。 |
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2013/07/25 (Thu)
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