【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


キラキラ
キラキラ
あっと氣が付いたら一月も更新していませんでしたね。2014年が明けてもう一ヶ月。わたしは日々元氣です。

更新が久しぶりなのは、アルフー(この日記サービス)のサーバの移管だかで、しばらくアクセスも出来なかったということもあるけど、携帯電話をスマホに機種変更してから、どうにも長文を書く氣にならないというのが大きいです。※ここの日記は基本的にメール送信で更新しているのです。

PCのキーボードや、ガラケーだと『文字を打つ』ということそのものに楽しみや快感がまだあるんですけど、スマホのタッチ画面だとそれが一ミリもい。のっぺりしているなと感じます。スマホは大変に便利だけど、これ単体では文字入力にはやっぱり向いてないですよね。何か対応を考えようと思います。外付けのキーボートとかあるのかな。

最近は何をしているのかというと、相変わらず体操と氣功ばかりです。氣功のお稽古を毎日するようになって1年くらいですが、世界がキラキラして見えます。恐ろしく美しいです。そして、何も無くてもこの身一つでしあわせ。

ちなみに、何も無くてもしあわせというのは、何かを得ることへの否定には一切繋がりません。
清貧は素晴らしい。リア充も素晴らしい。ただそれだけのこと。

あと、『笑う』ことについての研究をしています。地味に。
2014/01/31 (Fri)



メリークリスマス
クリスマスプレゼントの代わりと言ってはアレですが、わたしの好きな、エンデのお話『魔法の学校』の一部を紹介します。よろしければどうぞ。

先日書いた「ほんとうのさいわい」や「すべてが奏でるハーモニー」と繋がっています。わたしの中では。

“きみたちの望みとわたしの望みがうまくあったというわけさ。そこに、ひみつがあるんだよ。”
なにげなく書いてあるけれど、これはかなり凄まじいと想います。さていかがでしょうか。


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 「さて、きみたちは魔法の勉強をしようと思ってこの学校へきたわけだね。それじゃあ、きみたちが魔法の勉強をどんなふうに思っているのか先生におしえてくれないか」
 マーリが手をあげました。
 「たぶん、呪文とかきまり文句とかを暗記するんじゃない。。それから、身ぶりや手ぶりなんかも。」
 べつの生徒が言いました。
 「きっといっぱい道具や機械を使うんだよ。化学の実験につかうレトルトってやつだとか、とくべつな密閉容器だとか」
 ひとりの女の子がさけびました。
 「それに、いろんな薬草や粉や、薬も」
 べつの生徒がいいました。
 「魔法の杖も」
 男の子がいいました。
 「ひみつの文字で書いた本だっているんだよ。その文字を知らないと、全然読めないんだ」
 ムークがこうふんしてどなりました。
 「魔法の剣も!」
 マーリが夢見るようにはなしはじめました。
 「それに、きれいな長いマントもね。青いビロードで、星座のもようがかいてあるのよ。それから細長くてとんがった帽子に‥‥」
 ジルバー先生がさえぎっていいました。
 「そういうものはぜんぶ、表面的な魔法の道具にすぎない。そういうものがだいじだとかんがえる人もおおぜいいるかもしれないが、そう思わない人もおおぜいいるんだ。ほんとうに必要なものはもっっとかんたんだけど、しかし同時にもっとむずかしいことでもある。それは、きみたちじしんんのなかにあるんだ。」
 生徒たちは、どういうことかよくわからなくてだまりこみました。
 先生は話を続けました。
 「それは『望む力』なんだ。魔法をかけようとするものは、自分のなかにある『望む力』をよく知ってつかうことができなければならない。しかし、そのまえに、自分のほんとうの望みを知って、それをじょうずに生かすことをならうんだ。」
 先生はすこし休んでから、また話を続けました。
 「ほんとうは、自分の望みを自分がかくさず、ありのままに知るだけでもいいんだ。ほかのことはぜんぶひとりでにうまくいくものなんだから。とはいっても、自分のほんとうの望みがいったいなんなのかみつけだすだけでも、なかなかむずかしいんだがね。」
 ムークがききました。
 「みつけだずってどういうこと?ぼくがなにかを望むときは、ぼくじしんが望んでいるんだから、本気にきまってるだろ。でも、だからって魔法なんかかけられないよ。」
 先生が説明しました。
 「だから、さっきから『ほんとうの』望みといってるんだよ。ほんとうの望みは、自分のほんとうのおはなしを生きているときにだけみつかるんだ」
 マーリが質問しました。
 「自分のほんとうのお話?だれにでも自分のほんとうのお話があるの?」
 「いいや、だれにでもというわけじゃない。けっして、だれにでもじゃないんだ。」先生はためいきをつきました。「まあ、ここ『望みの国』では、まあまあうまいくあいにいってると思うけどね。でも、外にある『普通の国』では、じぶんのお話を生きたことが一度もない人がほとんどだ。あの人だちは、そういうことが大事だとおもってないからね。だれかがやってることをほかのものがやったり、なにかのできごとが、べつの人に起こったりしても、大きいちがいはないんだよ。そうじゃありませんか。」
 先生はそういうと、いちばんうしろの席にすわっているわたしをじっとながめました。子どもたちもみんな、わたしのほうをむきました。わたしはとまどいながらうなずいたのですが、顔がすこしあかくなりました。
 先生はまた話はじめました。
 「そういう人たちはけっして、自分のほんとうの望みをみつけだすことができないんだ。自分がなにを望んでるかくらいよくわかってると、いうかもしれないがね。たとえばゆうめいなお医者か教授か政治家になるのが望みだという人がいるとしよう。でも、自分で気が付いてないほんとうの望みは、そぼくな、いい園芸家になりたいというものかもしれないんだ。お金や権力を望んでる人は、ほんとうはサーカスの道化師になりたいのかもしれない。 ---中略--- だからそういう人は魔法をかけることもできないんだ」
 マーリが信じられないといった顔つきでたずねました。
 「それじゃあ、ほんとの自分でいて、ほんとの自分の望みを知っていたら、魔法をすぐにつかえるの?」
 「そういう人は、なにもしなくても、望みがかなってしまうことがよくあるんだ。まるでひとりでにそうなったみたいにね。」
 子どもたちはしばらくのあいだ、かんがえこんでいました。それから、ムークがたずねました。 
 「先生はほんとうに魔法がつかえるの?」
 先生はおもおもしくうなずきました。
 「もちろん。でなければ先生はやってないだろう。きみたちには、なんでも教えてあげるつもりだよ。それがわたしのほんとうの望みだから。」
 マーリがききました。
 「ちょっとでいいから、なにか魔法をつかってくれない?ためしに。」
 「ものごとには、すべて時期というものがある。もうすぐ魔法をつかう時もくるが、いま、わたしはそういう望みはもっていないんだよ。」
 子どもたちはすこしがっかりしたようでした。
 ムークが、せめて魔法をつかう話だけでもききたいと思って、たずねました。
 「先生はほんとうにちゃんとした魔法をつかったことがあるの。」
 「もちろんだよ。たとえば、きょうみんなが学校にくるように望んだら、きみたちみんなやってきただろう。」
 「なーんだ、そーんなの。」ムークはわざとまのびした調子でいって、マーリとめくばせしあいました。「もしかすると、ぼくたち、きょう、こなかったかもしれないよ。」
 先生はにこにこ笑って、首をふりました。
 「だけど、きみたちはきただろう。」
 生徒たちはくちぐちに大声でさけびました。
 「だって、くるつもりだったから、きたんだもーん。」
 先生は生徒たちをなだめていいました。
 「しずかに、しずかに!もちろん、きみたちはこようと望んで、きたんだろう。しかし、いい魔法使いはいつもあいての気持ちをよくかんがえて、ぜったいにむりにしたがわせたりはしないものなんだ。きみたちの望みとわたしの望みがうまくあったというわけさ。そこに、ひみつがあるんだよ。」
 マーリがしんぱいそうにたずねました。
 「だったら、悪い望みもあるんでしょ?それに、わるい魔法使いだって。」
 先生はまじめな顔になりました。
 「それはとてもだいじな質問だよ、マーリ。そのとおり。たしかにわるい魔法使いもいる‥‥だけど、ひじょうにすくないんだ。というのは、わるい魔法をつかうにはほんとうに自分じしんがわるくないといけないんだが、そんなことはなかなかあるものじゃない。なにもすきになっちゃいけないし、だれもすきになっちゃいけないんだ。自分じしんでさえもね。それに、わるい魔法使いのいうとおりになるのは、自分のほんとうの望みを知らないし、自分じしんでもない人たちだけだ。だから、きみたちががんばっていっしょうけんめい勉強することがだいじなんだよ。魔法をつかうということはしんけんなことなんだ。ほかの人をよろこばせようとしてやる時だってね。みんな、わかるかい」
 生徒たちはだまりこんで、なにやらかんがえこんでいました。
2013/12/25 (Wed)


 
ほんとうのさいわいと、すべてが奏でるハーモニーについてぼんやりと想いを巡らせる。

美しさとは調和。
全体の調和がとれている状態を主観視すると、「都合がよい」になる。
2013/12/20 (Fri)


静かな破壊力
静かな破壊力
今年の冬はあまり寒く無い。毎年12月にもなると石油ファンヒータを使っているけど、今年はまだ電気ストーブで充分です。灯油もまだ購入していない。このまま冬を越せたらいいのだけれど、寒さの本番はこれからなのでどうでしょうね。

さて。氣がついたら子宮筋腫が無くなっていました。実は3年前に初めて婦人科検診をして「小さいのが2,3個ありますね」と言われていたのですが、いつの間にか無くなっていました。

度々書いてはいるけれど、昨年の夏にブリージングストレッチというメソッドに出会ってから、コツコツと毎日欠かさず体操をしていたし、半身浴も習慣づけた。食生活も変えた。

えーっと、こんな風に書くと、まるでストイックな生活をしているかのような印象になるかもしれないけれど、そんなことは全然無くて、楽しく氣持ちよく体操をしているし、食生活にも無理は無い(※)。

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 ※わたしの食生活

  朝‥食べない
  昼‥果物
  夜‥普通に一食好きなもの(お酒も飲む)
  状況に応じてお菓子も食べるし休日は友達とランチしたりも当然します。

  そろそろお酒は控えてもいいかなという氣になってきた。

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ブリージングは、子宮筋腫を治そうと想って始めたわけではないのだけど、結果的にこれがよかった。「やっててよかったなー」としみじみ感謝。

適切な(←重要)体操で骨格のゆがみを整えて、筋肉の緊張を緩め、半身浴で体温を上げて、食生活で内臓の疲労を取っていけば、身体はよい方向にしか行かないです。今年からは氣功も始めたので、なおさらよくならないわけが無いです。

というより、『症状即療法』の言葉がある通り、そもそも子宮筋腫だって身体がよい方向に向かうために(それ以上悪くならないために)機能してくれた結果なのだから、全然悪者ではないんですけどね。

ところで、わたしは自分に子宮筋腫があることに少なからずショックを受けたんですけど、それを人に話してよく言われたのが「最近多いよね」でした。これは一体どういうアレなのだろうかと想う。

こういう場合「多いからなんなんだ」という風に想わなくてはならないです。本当は。でも「最近多いよね」と言われると「ああそうかー。最近多いのかー。じゃあ仕方が無いやー」と納得してしまいそうになる。
あまり告白したくないけれど、わたしもそうでした。うっかり納得しかけてしまった。これは大変に恥ずかしいことです。

言っている方は、悪氣がなくて、むしろショックを和らげようという親切であることが多いとは想うんだけど、ショックの中には、実は大切なものがたくさんある。例えば「何でこうなってしまったんだろう」という反省や疑問。これは非常に大事。ここから見えてくるものは沢山あるはずなんですよね。でも、ショック自体を無効化されてしまうと、そういったものまで見失ってしまうことが多い。これはよくないことだとわたしは想うのだがいかがたろうか。

もちろん、ショックを受けてそれだけにとらわれるのもどうかと想うけど、「最近多いよねー」には氣を付けた方がよさそうです。

あと、これとはまた違うんだけど、誰かの疑問や祈りを無効化する「そんなことないよ」というセリフの静かな破壊力についても最近はよく考えていますが、それについてはまたいつか。








2013/12/19 (Thu)


ご案内
新しいページを立ち上げました。

ココでも写真付で記事を上げてはいますが、そちらはあえて、『写真+一言』という構成にします。

とりあえずココの昔の記事の中から、それっぽいものをいくつか移しました。
興味のある方はチラホラ覗いてみてくださいませ。

※もちろんココはココで更新しますよー。

http://www.alfoo.org/diary50/0313/index.php
2013/12/03 (Tue)


 
梨とあんぽ柿があったら、あんぽ柿を選ぶ。
2013/11/27 (Wed)


 

冬の空の青にカモメの腹の白
2013/11/20 (Wed)


無頓着
無頓着
『人の話に対して「懐かしい」という相づちを頻繁に使用する人は、自分以外の人間の人生(時間と言い換えてもよい)に対して無頓着である』という法則がある。法則って、まあ自分が勝手に作ったんだけど。

もちろん、たとえばお互いに共有している過去に対して、お互いが懐かしみを抱いているのであれば、それはとても素敵な共感だろう。

しかし。しかしですよ。よーく考えてくださいよ。
懐かしさとは、乱暴に言ってしまえば『片づけられた過去』に対して抱くものであるわけだから、実質的な時間がどんなに経過していたとしても、片づいていなければそれは懐かしさにはならないですよ。

まあ、わかりやすいのが歌とかね。たとえ20年前の歌であったとしても、その歌がその人にとって『片づけられた過去』でなければ、その人にとっては現在進行形で自分と共にあるわけです。それを勝手に『懐かしさ』の中に閉じこめられてしまうというのは、まことに寂しい。

話をしている人にとって、ソレが『片づけられた過去』であるかどうかなんてのは、脈絡をよく聞いていればなんとなくわかりそうなものなのであるが、わからないのならわからないことを自覚した上で「わからないことに対しては慎重に」を心がけたい。
思いやりってそういうことだと想う。

なんてことをね。昨日ちょっと考えていました。(別にイヤなことがあったわけではありません)
2013/11/10 (Sun)


 
すべては距離感。
いかに適切な間合いがとれるかで、ほとんどすべてが決まる。
2013/10/31 (Thu)


結界と距離感
結界ってのが何であるのかをわたしは知らないが、たとえば空間があって、床や地面に一本線が引いてあるだけで、どういうわけかその先には入ってはいけないような氣になる。人にはどうもそういう性質があるらしく、そういった風なものを結界と呼ぶのかとぼんやりと想っている。

仮にそこにあるのが門や扉であったならば、それが閉じていようが鍵がかかっていようが、こうまで『入ってはいけない』とは感じないだろう。何故なら門や扉は開けるためにあるからだ。(入ることが前提になっている)

しかし。たまにその線をまるで氣にしない、氣付きもしないような人をみて吃驚することがある。そのような人を観察していると、どうも不思議な距離感を持っていることが多いように感じる。

一言で言うと。‥‥近い。
2013/10/26 (Sat)



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