最近、十字架が美しいと思い始めている。
わたしはキリスト者ではなく、十字架の宗教的な意味もよく知りはしない。ゴルゴダの丘で磔刑にされた男がいて、なぜその拷問の道具であるアレが聖なるシンボルとなるのか、その感覚も背景もわからない。全く共感できない。しかし十字架のあの形は美しい。
森博嗣さんが何かのどこかで『自然界には直角というのはほとんど見られない。自然に形成される形ではない。直角で構成されている十字架というのは、だから人の意志そのものだ』みたいな事をおっしゃっていたような記憶がある。本当にうろ覚えで申し訳ないし、ご本人の意図するところとは全く外れてるかもしれないけれど、そのような事をどこかに書いていらした。
(その一文にそれ以上のいかなる判断も記されていなかったように記憶している)
森博嗣さんがおっしゃるような意味合いが実際にあの形に託されているのかどうかはわたしにはわからないし、そもそも森博嗣さんのその文章に対するわたしの記憶も疑わしいのだけど、宗教的なシンボルとして人の意思を世界に掲げるというのは、我々日本人にはあまり馴染みの無い感性のような氣がします。うーん、なんとなく。
で。「もしも、世界に対して人の意思の存在を主張する事に宗教的な意義があるのだとしたら、わたしはそこに美しさは見いだせない。それは人の思い上がりでしかないのではないだろうか」などと、うすらぼんやり考えていたのだけど。‥‥最近何故だかその『人間の意思の象徴(なのかもしれない十字架の形)』がとてもとても美しく思えて来た。
わたしは今まで心のどこかで「人間は汚い」「人は醜い」と、思っていたのだと思う。例えばわたしが『世界は美しい』と言う時には、常に『(人間さえいなければ)』という但し書きが付いていたのだ。
世界に我々人間が存在している以上、人間の存在を認め無い限り、世界をまるごと受け入れているとは言いがたいわけだから、それはすなわち世界への信頼の欠如であったわけで、ここへ来て急に十字架を美しく感じ始めている事で、逆説的にこれまでの自分の世界への不信感を知ることになってしまったような氣がして、なんだかとても淋しい氣持ちになった。
淋しい気持ちになってしまったのだけれど、どうやらわたしはようやく人としてのスタートラインに立つことが出来たみたいだから、これから巻き返そうと思う。
神様。