【※重要なお知らせ】Alfoo有料化への移行に伴う重要なお知らせ。


グラリ
グラリ
歩いて30秒の距離でありながら最近はもう何ヵ月も河原に出ていなくて、これならもう川の近くに住んでいる意味も無いから、そろそろ引っ越そうかなと思っているんだけど、久しぶりに橋の上から眺めた景色はやっぱり息を飲むほど美しくて。

さてどうしたものか。
2015/07/20 (Mon)



七夕
万物がしあわせでありますように‥‥
2015/07/07 (Tue)


ミラクル
ミラクル
うまく言えないけど、食べることとお金を使うこととセックスは大変によく似ていると感じている。
共通するイメージは『愛し合う』ということ。『交流』、『循環』。


*****


食べたものが消化されて吸収されてワタクシが作られていくというのは、氣が狂いそうになるくらいに不思議だとは思いませんか。さっきまで目の前にあったものがワタクシのおなかの中に入って、いつの間にかワタクシになっているんですよ。

なんたるミラクル!

そしてワタクシがワタクシだと思っているワタクシも、日々少しづつ何かに食べられ続けて、世界へ溶けてゆく。

はて、ワタクシってのはどこまでがワタクシなんでしょうかね。
そして、どうなったらワタクシじゃなくなるんですかね。

食に携わる人は、食を通じて世界を作っているのだとわたしは思います。
2015/06/24 (Wed)


(仮)
勘違いのカラクリ
あなたは熟知してるはず
関わり合いを持ってしまったなら
いくらでも感度を上げてみろって

このままどこへでもゆけると思ってた
ガンダーラそんな場所へも彼となら

かりそめのビジョン それでもいい
かさばっても抱えていたかった

ハイヨー カウボーイ
ハイヨー カウガール

だから神様にお願いしてみせたのに

(仮)
(仮)
なにからなにまで
(仮)
2015/06/22 (Mon)


夏至
夏至
中日までご無事で
2015/06/22 (Mon)


Mi Refugio
Mi Refugio
ここのところ四谷三丁目に足繁く通っている。お目当ては『私の隠れ家』さん。友達がTwitterで「ほとんど宗教的に愛しているお店」と書いていたのを読んだのがきっかけです。
最近はあまり会っていない友達ですが、その審美眼にわたしはかなりの信頼を置いていて、彼がよいと言うものは、たいていの場合わたしも素敵だと感じるので、あの愛情あふれるツイートを読んだからには是非とも行ってみたいと強く思ってしまったのです。

で、先月のゴールデンウィークに初めて訪れたのだけど、本当に素敵なお店でわたしはたいそう感動してしまい、それからというもの、家からも会社からも別に近くはないし、すごく行き難いわけではないけど、特に立ち寄りやすいわけでもなく(意志を持って赴かないと行けない)、強いて言えばお稽古事で通っている浅草橋からの帰りにはちょっと行きやすいかなというような立地条件でありながら、どうしても週に2回は行ってしまっている。
本当はもっと行きたいのだけど、お店の営業日と営業時間と、自分のスケジュールとの兼ね合いで今のペースになっている。(あまり行きすぎたら氣持ち悪いかなと思って自重しているのも多少は、ある)

タンゴの名曲がお店の名前になっているという『私の隠れ家』は、美味しい珈琲と素敵な音楽が楽しめるとても小さな喫茶店なんだけど、お野菜たっぷりのごはんも食べさせてくれる。これがなんとも言えず美味しくて美味しくて。丁寧に愛情込めて作ってくださっているのが本当によくわかる。
あそこのごはんを頂くと、自分まで丁寧な氣持ちになれて、いつもより人に優しく出来るような氣さえするのだけど、そういうことってやっぱりあるよね。食事って単なる栄養補給じゃないのだもの。
普段外食する時には(家でごはんを食べる時も)、ほぼ必ずビールを飲むわたしだけど、あのお店に限ってはそれがいらない。欲しくならないの。心身が完全に満たされてしまうから必要無くなるんだとなんとなく想ってる。

小さなお店だから他のお客さんのこともよく見えるし、店主さんとお客さんのやりとりもよくわかるんだけど、これがまた素敵な間合いで、こんなに魅力的なお店ってなかなか無いです。お金のことまで考えてしまいますもの。なんだろ。このお店に週2回通えるだけのお金が自分にあることが本当にありがたいなと。(あ、誤解されそうな書き方だけど、『私の隠れ家』の価格設定は非常に良心的です。)喜んでお支払が出来るというのは大変にしあわせなことですよね。

お店に誰でも何でも書き込んでよいというノートがあることに氣付いたんだけど、それを読むと本当に色んな人に愛されているお店なんだなと想って、新参者ながらジーンとしてしまう。ファンがたくさんいるんだろうなぁー。(あのノート、いつかわたしも何か書いちゃおう)

ところで、『私の隠れ家』は珈琲が本当に美味しいので、いつか珈琲とケーキでまったりと過ごしたいと想ってるのに、どうしてもごはんを頂いてしまうわたしです。どうしたらいいんでしょ。

ともあれ紹介してくれた友達には感謝。そのうちお店でばったり会うかなと思いつつ、今のところそうはなっていないけど、いつか会った際にはどうぞよろしく。
2015/06/17 (Wed)


COLORS
COLORS
最近、身に纏うものの色味が変わって来ている。変わって来ていると言うか、別に自ら変えているだけで、要はお洋服の事なんだけど。

ここ7、8年くらいの間、自分が身に纏っていた色味が地味過ぎたことに最近ハタと氣が付いて、どうにも嫌氣が差して仕方が無くなってしまったのである。 なんだか知らないけど、グレー系がやけに多くて、全体的にくすんでいる。何故この色をあえて選んでいたのか我ながら理解に苦しむ。「こんな変な色着たくない!!」と思ってしまったのだ。

とは言え、もちろんいきなりタンスの中を全部入れ替えるわけにはいかないので、チビチビとキレイな色の服や小物を買ったり、今まで持ってはいたけどあまり着なかった明るめの色の服を着たりしてここのところは過ごしていたんだけど、昨日会社の同じフロアにいる格好良いオジサマに「なんか最近明るい色が多いよねー?」と言われて、パッと嬉しい氣持ちになりました。
人に認めてもらいたくて明るい色味に移行しているわけではないんだけど、わかってくれればやっぱり嬉しいよね。まあ相手にもよるんだろうけど。

それにしても纏いたい色味の変化。我ながら興味深い。
今は嫌に無くなってしまった色味でも、その時には多分何らかの理由で必要だったんだろう。
何かからわたしを守ってくれてたのかな。
2015/06/12 (Fri)


豊葦原の瑞穂の国
豊葦原の瑞穂の国
今年に入ってからこっち、毎日必ず大祓詞を唱えています。「たかまのはらにーかむずまります‥‥」ってやつです。 半年近く毎日唱えて、やっとなんとか暗記出来たみたいだ。ちゃんと正座して合掌して目を閉じて、という条件下であるならば‥‥という制限付きだけど。(たとえば歩きながら暗唱出来るかと言うと、それはまだ怪しい)
般若心経はもうほぼ完全に暗唱出来て、大祓詞とセットでこれまた毎日唱えてる。具体的な回数は書かないけど、聞いたら多分びっくりされるような回数を唱えることもある。

「それ、唱えてどうするの」とか「唱えたからなんなの」聞かれても、一言で説明なんて出来ないんだけど、色々あるのです。色々。

えー、たとえば『声を出す』というのはそもそもとてもデリケートな行為だし、さらに音読などというのは肉体的にも精神的にも非常に高度な精密さが要求されますから、日々繰り返していれば色んなことが変わってきてもまったく不思議ではないんですが、わかりやすいところでは、まず表情の変化。般若心経はちょっとわかりにくいかもしれないけど、大祓詞は唱える前と後ではハッキリと違うと思う。なんというか微笑みの口元になるんですよ。これ本当。
たぶん、そういう風に作られてるんだと思う。当たり前だけど音読って、顔の筋肉をすごく使うんだけど、あの唇と舌の運動プログラムは本当によく出来てると思います。

で、大祓詞ってのは、現代日本では普段使わない音の並びだから、唱え始め当初は何しろ口も舌も動かない。今まで使ったことのない筋肉の使い方をするわけだから、とにかく疲れる。それでも唱え続けて口を作らなくてはならない。それだけの価値がある。

さっき『口を作る』と書いたけど、わたしは最近よく『口が出来てる』『口が出来ていない』なんていう言い回しをよく使う。
普段使っていない言葉って、やっぱりその言葉を口にする際の筋肉の動きを身体が『知らない(あるいは慣れていない)』から、咄嗟に出てこないんだよね。 いくら頭で意味だけ分かっていても、身体を使ってそれをスムーズに表現できないってこと。
逆に言うと、口癖って誰でもあると思うけど、アレってのは、肉体的な筋肉の癖である部分が実はかなり大きいと思う。表面上はその意味など意識することなく、出来上がってしまった(そこに到までのきっかけや過程は人それぞれに、色々あるでしょう)筋肉の癖で色々と口にしてたりしてる。
素敵な言葉を無意識に口にしてるのならそれは素晴らしいことなんだけど、問題はあまりよろしくない意味合いのことを筋肉が覚えてしまっている場合。 「疲れた」だの「めんどくさい」だの、はたまた「死にたい」やら「殺す」やらを悪氣なく口にしているのはやはりマズい。
悪氣が無いどころか、自分がソレを口にしている意識すら無いことも多いわけで、コレは最悪だ。だって、自分で自分に暗示をかけ続けているのと同じだもん。それが無意識であればあるだけ自己暗示地獄にハマっていく。(暗示というのは無意識の領域に働きかけるものだから。た多分)

そこで。大祓詞や般若心経の出番ですよ。それらを唱えることで、無意識に出来上がってしまった筋肉の癖をリセットしていくことが出来る。これは確実にそう。
筋肉の癖をリセットすれば、口癖も変わってくるだろうし、口癖が変われば自己暗示内容だって変わるだろうし、自己暗示内容が変われば人生なんて簡単に変わるでしょう。
これが大祓詞や般若心経の、ほんの一面。たぶん、そんなに間違ったことは言っていないと思う。

まあなんでもいいんだけど、なにしろキレイなものだよ。
2015/06/09 (Tue)


世界に刺繍
世界に刺繍
紫陽花が美しい季節。皆様いかがお過ごしですか?

さて。ここの日記は、携帯メールから送信しているのだけど、一昨年の冬にスマホに機種変更をしてからこっち、更新が極端に減ったと思う。
たぶん何度か書いているとは思うけど、なにしろスマホで文章を打つのが本当に楽しく無いどころか、ストレスにしかならないから。だからメールも必要最小限、短文でしか送らなくなってしまった。

ガラケーの親指でポチポチと文字を打つあの感じが本当にわたしは好きだった。なんとなく世界に刺繍をしているような氣持ちにもなって、書きたいことがどんどん書けた。
わたしは自分では文章を書くことが好きなのだと思っていたけれど、本当はそうではなくて、あのポチポチが好きだっただけなのかもしれない。

片手で手のひらで打てるのも大変に好ましい。ふと思いついた時に、電車の中でも、喫茶店でも、コンパクトに書ける。 PCなんかのキーボードももちろんよいのだけど、だからと言って自宅でわざわざPCを立ち上げてまで文章を書くかというと、そんなことはやっぱり無かったし(もはや自宅のインターネットの契約も解除してしまい、PCは引き出しに仕舞い込んだままになってる‥‥)、やはりわたしは純粋に文章を書くのが好きなわけではないのだな。

さて、そんなこんなでけっこう放置状態だったこの場所。全然更新も出来ないし、一旦閉鎖(アクセス制限をかけてた)などしていたのだけど、どういうわけかこんなネットの片隅でひっそり息をしている地味な日記でも氣にしてくれてる人がいるみたいで、何人かから「もう書かないのか」なんて連絡が入ったりしていました。ありがたいことです。

どうしたものかと思っていたわけですが、ふと思いついたことが。
今やただの目覚まし時計と化している、以前使っていたガラケー(au CA006。わたしはCASIOの機器が大好きでした!)のメール機能を活用できないか。メール本文にアレコレ書いて、それを赤外線でスマホに送信すればそれでよいではないか。
メール本文を赤外線でやりとり出来るかどうか分からなかったのですが、調べたらデータフォルダに一度保存してしまえば可能みたいなので、早速テスト。

おー、これは素晴らしい!改行はまったく反映されないけど、ちゃんとスマホ側に保存されました。それをコピペして改行の手直しをすれば、やや胡乱ではあるけど日記の更新が出来るではないか!

‥‥で、早速コレも嬉々として通勤電車でポチポチ。まったく苦にならないよ。
そこまでして日記を更新したいかというとアレだけど、このポチポチが楽しいからいいのです。

まあ、刺繍ですから。

早速、CA006の電池パックを確保しようと思います。
あと目覚まし時計も買わなきゃ。
2015/06/03 (Wed)


ゴボウな日々
ゴボウな日々
最近はゴボウばかり食べている。年末に友達にゴボウがたくさん入った鍋物を食べさせてもらったのだけど、それがとても美味しかったので家で再現して食べたり、味噌汁にわんさか入れたりしている。(豚肉無しの豚汁みたいなの)
この前、別の友達に「生のゴボウをすりおろして味噌汁に入れると身体が温まるらしいよ」と教えてもらったので試してみたら、確かにお腹がポカポカになる。朝コレを飲むとすごく元氣になる感じがして氣に入っています。

さて。お湯だけで洗髪をすることを一部では『湯シャン』とか言っているらしいのだけど、まるでセンスが無いと思っている。
実は、わたしも今や週に一回くらいしか洗髪時に石鹸を使用していないんだけど、自分が『湯シャンしてる』とは思わないです。 だって『湯シャン』ってシャンプーありきで作った言葉ですから。シャンプーの存在が前提にある。センス無いどころか、トリック臭がプンプンするよ。こんな言葉を嬉々として使ってる限り、シャンプーの習慣は無くならないだろうなと、横目でみてる。

えーっと、わたしは別に「シャンプーなどこの世から無くなってしまえ」とか言いたいわけではなくてですね。皆が思ってる以上に言葉、特に名前には凄まじい力が多分あって、人々の無意識を絶妙にコントロールしてるのだと思うってことをこそ言いたいのです。
『湯シャン』って言葉の中には「シャンプーを使うのが前提というか考えるまでもなく当たり前。でも、中にはお湯だけで洗う人もいるみたいだね」という世界観(?)が閉じ込められている。 『布ナプキン』とかもそうなんだけど、 キラキラ風味の人々が『湯シャン』やら『布ナプ』やらを無邪気に口にすることで、実は合成洗剤や合成ナプキン(?)が定番になるというトリックなんじゃないかと疑ってる。

このわたしの話は『シャンプー』を『洗髪に特化した合成洗剤』と定義した上でのものなので、もしかしたら『シャンプー』という言葉に『洗髪』とか言う意味合いがあるのであれば『湯シャン』なる言葉もあながちおかしなものではないけど、たいていの場合はあの洗剤のことを差してるよね?違うのかな。

まあ、別にわたしの考えすぎならそれに越したことはないのです。
『する(ある)』を表現するのに比べて『しない(ない)』を表現するというのは、難しいですからな。

写真は近所の河原にいつもいる猫。本文にはまるで関係ありません。
面構えがいいな。
2015/01/15 (Thu)



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