嬉し涙と悔し涙のほうが理に敵うよなあ。
恐怖心で泣くのは例えば映画を見て親に抱きつく子のような、甘えがあるからで。
本当に自分が危機状態にあるのに泣くのは思考が鈍い。恐怖で思考放棄するのはさっさと死にたいからだろ?
敵対者の前で泣くのは脅迫したいんだろ?
感情の発露として対等に使うのなら、嬉し泣きと人知れず流す悔し涙だよな。
昔っから、ギャルの言う「泣ける映画」というくくりが嫌いだ。
泣きたい何かを経験したからって、泣く為の用意を周到にして作品見るとか製作者を冒涜する行為に思えてならない。
絶対にああは成りたくない。
とまあ、気が荒立つとアンチギャルな部分が沸いて出てくるわけですが。
他人を執拗に叩こうとするのも、自分に苛立ってるのをすり替える為に悪い他人がいるって思い込んで、誤魔化そうとしてるだけなんだよなー。
しかし、苛立ちは自分に対しての不満・矛盾が全てなのだから幾ら他人を叩いても意味ないのよ。それすら気づかない愚か者はいじめっこの皮を被った臆病者やってるわけですが。
結局全ては、自分への誠意よな。
自分で引いた将来の設計図。それを実現する為にどれだけサボらず計画的に休みつつ、先へ進めていくか。
他人の妨害なんて自分の慢心に比べたら大した障害にならないよ。
健康だけはどうにもならないが、病院送りにならないうちから弱音吐いて足を止めるのはサボりだ。
自分に他人に、鞭入れて働かせなきゃ敗退からの前進なぞ出来るものか。